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馬耳塞滞在記

by. 薄氷

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 赤毛はさして珍しい訳ではないが、燃える様な緋色の髪は生まれて初めて見た。日が沈む直前の水平線の空の様な、美しい、目を引く髪だ。髪だけじゃない。どこか遠くを見つめる、黄昏の空に反射した夕日の様な金色の瞳に、思わず目を奪われた。
 顔立ちは到って平凡ではあるが、どことなく愛嬌のある、東洋人らしいチャーミングな顔だ。見たところ、十四、五歳ほどだろうか。東洋人は幼く見えるとよく言われるが、彼女の迷子になった子供の様な表情や、少女めいたデザインの白いワンピースが幼い顔をさらに幼く見せていた。
 ああ、前の通りのパン屋のおばちゃんが声をかけてる。迷子に思われたのだろうか。
 お嬢ちゃん、お母さんは? お家はどこか分かるかい? 訛りのキツいフランス語だからか、彼女は良く聞き取れずに、曖昧に笑って、適当に誤魔化そうとしていた。……東洋人って、本当にああやって笑うんだ。
 不憫に思ったのか、おばちゃんは店からパンを詰めた袋を持ってきて、彼女に押し付け……いや、渡していた。これ食べて頑張んなさいってところか? 線の細い彼女に、あの量は厳しいのではないのではないだろうか。彼女は申し訳なさそうに断ろうとしているが、おばちゃんは止まらない。若い子にパンを押し付ける……いや、オマケするのが好きなのだ。特に、彼女の様に可愛らしい女の子にはな。ちなみに俺はまだ、一度もパンをもらったことはない。
 結局、パンを受け取った彼女は、パンの重みに驚きながら、坂道を登っている。分かる分かる。パンって、買い込むと結構重たくなるよね。フランスパンとか嵩張るし。
 冷房の効いた涼しい店内から、カフェのオーナーの親父(実父ではない)に、いつまで店の前の掃き掃除してんだと、どやされた。確かに、いつもの三分の一の効率だが、そこまで怒ることないのではないだろうか。秋なら枯葉が沢山落ちていて大変だが、夏場はそこまで重労働ではない。この強い日差しの中で、直射日光に当たりながら掃除をするのが大変でないと言うのならば。
 適当にその辺を掃いて、掃除道具を片付けて、少し額に滲んだ汗をハンカチで拭い、ギャルソンエプロンを手早く腰に巻けば、バイト時刻の開始だ。今日は午後からのシフトだ。
 ドアベルが甲高い音をたてて、客が訪れたことを知らせた。

「ボンジュール、ビヤンブニュ(いらっしゃいませー)」
「あ、ぼんじゅーる」

 前の通りのパン屋の紙袋を掲げた、白いワンピースの少女。緋色の髪は風に攫われたのか、少し乱れていた。
 舌足らずで可愛らしい、たどたどしいフランス語。バキュンッと、俺の燃え盛るハートが打ち抜かれる音がした。一瞬で体温が上がって、今度は手のひらに汗を書いた。
 エクトル・レオタール、十九歳の夏、見知らぬ女の子に恋に落ちました。



 うちの店は、まずカウンターで注文を取り、そこで商品を受け取ってから、自分で席を探すスタイルだ。だから、商品は基本手渡し。つまり、手と手が触れ合って……なんて、偶然が時折発生する。この店の客層なんて、暇なマダム達か外回り帰りのサラリーマンぐらいだけど、一週間前から、新しい常連が加わった。
 カランッと、ドアベルが軽やかな音を鳴らした。午前一時、ちょうど。彼女の来る時間だ。

「ボンジュール、ビヤンブニュ! マユキ」
「ぼんじゅーる、えくとる」

 ああ、聞いたか、この可愛いらしいフランス語を! 正直、彼女のフランス語の発音の愛らしさに心撃ち抜かれた俺は、すっかり彼女のファンだった。いや、彼女が何かしている訳ではないけれども。
 俺の高度なコミュニケーション能力で聞き出したところによると、フランスに友達は俺以外にいないとのこと。まず友達認定されていることに全力で喜んだ。好印象なのはいいことだ。

「いつものか?」
「うぃ、すぃる・ぶ・ぷれ」

 ああ、Vの発音が上手く出来ないのが可愛い。抱きしめて頬ずりしたいのを我慢して、いつもの営業スマイルで冷静に伝票に彼女の注文を書き綴る。だって、急に抱きしめたりしたら、変態だろ。友達という好ポジにいるのに、印象を悪くすることはしたくはない。まあ、我慢しすぎて手が震えて、ミミズがのた打ち回った様な字しか書けないんだけどね!
 彼女の注文は、アイスカフェオレのミルク多めの氷多め。だけど、ガムシロが入れない。顔に似合わず、意外と大人な好みだ。
 窓際の日の当たる席。そこが彼女の特等席だ。強い日差しは嫌いだけど、日の光を受けてキラキラ輝く彼女の髪を見ると、まあ、夏の日差しも悪くは無いんじゃないかなと思う。
 客の賑やかな話し声が満たす店内で、彼女の席だけが切り取られたかのように静寂が保たれていた。金色の瞳が見据えるものは遠くて、決して気がついてはいないだろうけれど、その横顔はどこか寂しげで。近寄りがたい、否、決して手を触れてはならない……そんな感じがした。俺は彼女の名前以外、カフェオレの好みしかしらない。そんな俺が、彼女の寂しさの原因を聞くことなんて出来ない。もし聞いてしまったら、彼女はもう此処には訪れない。そんな予感すらした。

「めるしー、えくとる。お・るぼわーる」
「ウィ。アビヤント、マユキ!」

 彼女が店にいるのは、きっかり二時間。その間、すっと通りを眺めているだけで、特に何もしていない。誰かを待っているかのように、ずっと人通りを眺めているのだ。
 あ、今日は手を振り返してくれた! すっごい小さくだけど!





 気がついたら、私は此処にいた。見覚えのない天井と、知らない白いベッド。酷く頭が痛んで、何も考えられなかったが、兎に角私は此処にいた。
 どうして、此処にいるかは分からない。
 どうやって、此処にきたのかも分からない。
 今まで、どう生きてきたのかも分からない。
 私がどんな名前なのか、親はどんな人で、兄弟はいたのか、どんな友人がいたのか。私という個人を形成するアイデンティティが何一つ存在しないのだ。
 痛む頭で考えた。でも、結論は出ない。疑問は生まれてくるだけで、答えることは出来ず、答える者もいない。何て空虚なのだろうか。
 一人きりの部屋の静寂は耳に痛いほどで、キィンと耳鳴りがした。考える度に頭が痛む。これ以上は良くない。考えるなと、体が悲鳴を上げている。でも、考えることをやめたら、何も思い出せなくなる気がした。
 どうして? 私には思い出すべき記憶があるの?
 何となく見上げた天井には天窓があった。見えたのは、満天とは言えない星空だけれでも。
 瞬間、一際酷く頭が痛んだ。思わず呻いて、シーツに包まって、枕を握り締めた。やっとの思い出かき集めた思考が、また散り散りになる。呼吸すら上手くできない。苦しさに喘いで、迫り来る死の影の様なものに怯えた。
 起きたら、また何もかも忘れているのだろうか。頬が濡れたのは、きっと涙だ。私は痛みに泣きながら、気絶するように眠った。



 今日も眠れない夜だった。何度も寝返りを繰り返した所為で、綺麗に整えられていたシーツは皺くちゃだ。それを巻きつけるかのようにして、埋もれるかのようにして、私は必死に目を瞑った。そうすれば、いつのまにか眠れる筈だ。これは、この一週間で学んだ唯一のことだった。
 毎夜、此処を訪れる、何だか高そうな服を着た人達(性別や年代、人種に一貫性は見られない)から渡されるちょっと異常な量の薬を飲んで、就寝することが義務付けられ、その薬を飲むと、酷い頭痛がした。その頭痛が無視して眠ると、何だか喪失感のようなものを抱くのだ。失うものなど、もう何も無いというのに。失うほどのものもないのに。
 カーテンを閉め忘れたせいで、バルコニーへ続く引き違い窓から、月光が降り注ぐ。昼間の太陽ほどの明るさはないというのに、それが酷く目に眩しくて、思わず薄目を開けて、窓の外を見た。
 眠れない、夜だった。気まぐれに窓を開けると、夜の海風にレースカーテンが舞い上がり、磯の香りが鼻を抜けていった。潮騒の音が此処まで届く。なんとなく、懐かしかった。
 波が押し寄せては引いてゆく様を見て、その冷たい波に触れたいと思った。これもまた、気まぐれだ。私の足は、心は、既に海へ向いていた。





 もう二度と、この街に訪れることはないと思っていた。既に自分の記憶とはかけ離れた様相を呈しているが、ほんの少しだけ垣間見える面影に得も言われぬ感情を抱いた。郷愁か、悲嘆か、憎悪か、それとも全てか。説明をしようとするだけ、無駄である。人間の感情は単純に見えて、何よりも複雑怪奇なのだから。
 いつもの服装ではなく、カルデアから支給された洋服を身にまとい、夜の闇に溶け込む様にマルセイユの街を歩く。既に誰もが寝静まり、すれ違う人影は無い。潮騒の音だけが耳朶を打つ。
 仮令、町並みは変わろうとも、海だけは変わらなかった。海など何処で見ても変わらないだろうと、あの頃は思っていたが、こうして見てみると違いがあることが良く分かった。既に、あの不可解な感情は胸から消え失せていた。
 唐突に夜風が吹いた。前髪が乱れて、視界が遮られる。あまりの鬱陶しさに舌打をした。海風の気まぐれさだけは、何時までも好きにはなれない。
 前髪を掻き上げて、もう一度海を見る。開けた視界だろうが、何も変わらない。潮騒の音、繰り返す漣、鼻を抜ける磯の香り、寸分も違わない。変わらないことに、苛立ちを覚えた。
 今日も収穫はなかった。その一文だけを、カルデアから支給された端末でカルデアへと送った。





 今日もマルセイユの日差しは強い。直射日光にガンガン当たり、LP(ライフポイント)とゴリゴリと削りながら、日課の店の前の掃除に勤しむ。いやあ、今日は一段と暑いね!
 こんな日には、冷たい飲み物が飲みたくなるよね。奥さん、うちの店によってかない? なんて。暑さで頭がやられてるのかな。はははと乾いた声を漏らしながら、ゴミをゴミ袋の中へ入れる。それにしても、本当に暑いなあ。額に浮かんだ汗を拭った。
 不意に、頭が影で隠れた。屈み作業をしていたため、上を見上げると、そこには可愛らしい常連さんがいた。

「ぼんじゅーる、えくとる」
「ボンジュール、ビヤンブニュ! マユキ!」

 今日も、フランス語の発音が可愛いな!



 最近になって分かったことだが、マユキは英語が上手い。めちゃくちゃ上手い。あの東洋人然りといった顔から、綺麗なクィーンズイングリッシュがスラスラと出てくるのは、中々凄い光景だった。俺は英語が苦手だから、マユキが言ってることの五割ぐらいしか理解出来ないだろうけど、その発音が綺麗なのは凄く分かる。日本人って英語が苦手って聞いてたけど、そうでもないんだな。
 カフェオレ、ミルク多めの氷多め。いつもよりも丁寧につくる。まあ、仕方ないよね! 親父! そんな生暖かい目で見ないで! 氷溶けちゃうから!

「あ、マユキ。席なんだけどさ、今日お客さん多めだから相席でも構わないか?」

 マユキは首を縦に振って、カフェオレを受け取った。
 いつもの特等席には、一人の男が座っていた。銀ではなく、白い髪の伊達男だ。どこか遠くを見つめる、憂い顔の美丈夫。お客のマダム達が色めき立っている。確かに、すげえイケメンだ。何食ったら、ああいうふうになるのだろうか。ちなみに、あの伊達男の注文はブラックコーヒー。渋いね。
 あの伊達男の周りも、マユキと同じように静寂が保たれていた。でも、手出しが出来ない様な静けさではなく、近寄りがたい静けさだった。憂い顔でも、その眼差しは鋭く、どこか影がある。日の光が似合わない、そんな人だ。

 どこか別の席に座るのかと思ったが、マユキはいつもの窓際の席……つまり、特等席の向かいの席に躊躇せずに座った。ざわめきたった、主に俺が。ちょいちょい警戒心が薄い子だと思っていたけど、あんなにも躊躇わずに男の真正面の席に座るか? 男は狼だぞ! 俺? 俺は……ぼ、牧用犬かな? 親父、笑うな! 石鹸屋のじいさんも笑うな!

「――」

 思わず、声を失った。
 何で、どうして、どうしてそんな顔をするんだ、伊達男。
 ポタリとテーブルの落ちたのは、グラスについた結露か、汗か。それとも――





 いつもの席は開いていなかった。そういう時もあるのだろうと、エクトルの言葉に頷いた。特段、席にこだわりがあるというわけではない。だが、あの席の居心地が良いというのも事実だった。
 受け取ったカフェオレをテーブルに置いて、席に着く。カウンターからは白い髪しか見えなかったが、確かに店のマダム達がざわめくだけの色男だ。全体的にスラッとしていて、洗練された雰囲気が漂っている。
 瞳の色は金色だった。はてと、そこで私は首を傾げた。色の抜け落ちた様な白髪と金色の瞳が、どこか記憶に引っかかった。おかしいな。私はもう一度首を傾げる。そんな記憶、もう何処にもないのに。

「**」

 ほんの少しだけ、空気が震える音がした。ポタリと雫がテーブルに落ちる。驚いた顔、初めて見た。
 嗚咽も漏らさず、ただ涙を流していた。困惑の表情は、自分が泣いていることへの驚きか、それとも私を見たことへのものなのか。
 思わず、右手を伸ばして、その涙を拭った。少し強めに擦ったから、赤くなってしまうかもしれない。でも、このままにはしておけなかった。どうしてだろうか。
「――君(・)は、そんな顔をして泣くんだ」

 今度は、私が驚く番だった。言葉が口をついて出てきた。
 私はこの人のことを何も知らない。名前も、顔も知らない。何も知らないのだ。
 でも、流れる涙を止めてあげたかった。何度もその涙を拭うけれど、とめどなく流れ続けて、手はびしょぬれだった。ああ、ハンカチを貸してあげればよかったかな。

「……ごめんね。どうして貴方が泣いてるのか、分かればいいんだけど」

 そう言うと、彼は大きく目を見開いた。目の端から、またハラリと涙が零れる。ああ、違う! そんな顔をさせたいわけじゃないんだ。止まらない涙に、焦りが募る。

「――此処に、いてくれればいい」

 心臓が止まりそうだった。懇願するような、縋るような声。どうして私に、ここまでの思いを抱くの。
 右手は捕まえられた。もう何処にも行けない。
 この人の顔が、これ以上悲痛に歪むのを見てられなくて、私は俯いた。





 今日の俺は機嫌がよかった。ふんふんと調子外れな鼻歌を歌いながら、今日も今日とて掃き掃除。音痴だねって言ったな、そこの小学生。残念ながら知ってるぞ!
 ああ、どうして俺の機嫌がいいかって? それはだな、カランクのクルーズのチケットを手に入れたからだよ! 別に貴重なものでも何でもないが、これでマユキを堂々とデートに誘えるだろ。いや、デートというか、遊びというか、出かけるというか、いや全部デートと同じ意味だよ。
 マユキと出会って、もうすぐ三週間が経とうとしていた。だというのに、会うのは店でばっかりだ。惚れたのなら、即日デートに誘うのがマルセイユの男だというのに、このザマじゃご先祖様に笑われちまう。
 今日こそ! マユキをデートに誘う! 親父、だから笑うな!

「! ボンジュール、ビヤンブニュ!」

 緊張して、声が裏返った。間抜けだなあ。かっこ悪いなんて思われてないといいんだけど。

「マユキ?」

 今日は、いつもよりボーッとしているようだった。店を通り過ぎて、ひとつ隣の酒屋に入りそうになっていた。さすがに未成年の飲酒は不味いだろう。慌てて回収して、店内に入れた。暑さにやられたのだろうか。どことなく元気が無い。
 いつもの日の当たる席ではなく、カウンター席に座らせて、いつものカフェオレと親父からのおまけのレモンの蜂蜜漬けを出す。なんだかんだ、親父もマユキのことを気に入っているのだ。

「マユキ、なんかあったのか?」
「……えくとる」

 うっすらと隈が出来ている。眠れなかったのだろうか。
 ここまで、何かを思いつめるとは、本当に何かがあったのだろう。

「……仲直り、仕方、分かる?」

 ギュッと、右手を握られる。女の子らしい小さな手なのに、存外に握力が強い。その力強さ……否、必死さに驚いた。
 金色の瞳はユラユラと、不安そうに揺らめいていた。

「仲直りって、昨日の人と?」
「うん」
「知り合いなのか?」
「分からない」
「分からない?」
「でも、そのまま、だめ」

 拙いフランス語で、マユキは懸命に語りかけた。
 知り合いじゃないのに、誰かも分からないのに、どうしてそこまで一生懸命なんだよ。胸に湧き上がった感情は嫉妬なのか、兎に角嫌な気分だった。素直にマユキを応援することも出来ない、自分のちっぽけさに苛立った。

「お願い、エクトル」

 ああ、駄目だ。こんな顔されちゃ、お願いを聞かないわけにはいかない。こういうのを、惚れた弱みっていうのかな、親父。
 俺は制服のズボンから、二枚のチケットを出して、マユキに渡した。

「カランクって知ってるか?」
「カランク?」
「そ。ここから電車一本で行けるカシっていう港町と、マルセイユを繋ぐ海岸線なんだけど、すっげえ綺麗な海なんだ。この時期は観光客でいつも混んでる」
「このチケットは?」
「カランクに行ったら、クルーズってのが鉄則なんだ。たまたま手に入ったから、やるよ」
「?」
「あー……昨日の人誘ったら、いいんじゃない? そこで謝ったら、きっと許してくれるよ」

 嘘だ。昨日の伊達男は、怒ってなんかいない。むしろ、出会い……否、再開を喜んでる節すらあった。
 二人の間に入る隙すらない。理由は言葉に出来ないけれど、そう感じた。あんな関係、一朝一夕で築けるものじゃない。なら、どうして知らないなんて言うんだよ。

「……ありがとう、エクトル」

 でも、マユキが知らないと言ったのも嘘じゃない。
 この少女は、酷く残酷だ。





 醜態を晒した。思い出す度に、湿ったため息が出た。恐らく、竜の魔女や作家系キャスターには、暫くネタにされるだろう。
 腹の底で燻る感情を鎮める為に、煙草に火をつけたはいいが、吸う気力もなく、ただ灰になって浜辺に落ちてゆく。まだ目が痛むのは、煙の所為か。涙はもう出ない。もとより、枯れ果てた筈のものだ。零れ落ちる筈がないのだ。
 ならば、どうしてあの時、ああも無様を晒したのか。彼女の姿を見て安堵したのか、何もかも失った事実に愕然したのか。答えの無い問いというのは鬱陶しいものだ。

 人類を救った少女がカルデアから姿を消したのは、もう三ヶ月も前のことだ。ある日、忽然と、何の前触れも痕跡も無く、誰にも悟られずに、カルデアを去った。
 当然、カルデアは上を下への大騒ぎだった。ある者は自分の責だと自害をしようとし、ある者は何に使うか分からない大掛かりな呪具を準備し、ある者は何の考えもなく雪山に繰り出す始末。一言でまとめると、軽い地獄だった。一番恐ろしかったのは、光の宿らない目で、『アトラス院に要請して、トライヘルメスで先輩の居場所を割り出す』と、本気で提案した後輩か。
 魔術教会、アトラス院、聖堂教会……兎に角、僅かでも縁があるならば、そこに要請をし、彼女の居場所を割り出そうとした。仮に、魔術教会が彼女を封印指定しようとするならば、そこを抑えて、膿を掻き出してしまえばいい。
 基本的に行動に制限の無いサーヴァントは、世界各国に散らばり、直接彼女を捜索している。ロシアの様な広大な土地でもない限り、同じ国にいれば、何となくではあるがパスの繋がりを感じ取ることは出来る。フランスへは、パリにマリー・アントワネットとシュヴァリエ・デオンが、リヨンにジャンヌ・ダルクとジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィが、そしてマルセイユへは俺が。
 マルセイユにたどり着いたのは、一週間前だ。彼女との繋がりはフランスに着いた時から感じていたが、この街に来た途端さらに強く感じることが出来た。それを辿れば、すぐにでも彼女を見つけることは出来るだろうと踏んでいたが、それは大きな間違いだった。

 まさか、魔術教会とアトラス院が共謀し、彼女の記憶を消すという暴挙に出るとは、誰も想像しなかっただろう。彼女に害を為した時点で、こちらがどう打って出るか、想像が出来ないほど能無しというわけでもなかろうに。
 その旨をカルデアに報告した時の連中の反応は傑作だった。特に黒化した英霊の反応は。カルデアがあわや大火災一歩手前の大惨事になるところだった。

 (これから、どうしたものか)

 彼女を攫うことは、赤子の手を捻るよりも簡単だ。だが、そうなれば魔術教会とアトラス院が黙っていない。正確には、彼女を攫った三下共、ではあるが。羽虫が集るのは、不快極まりない。
 魔術教会には、ロード・エルメロイ二世を通じて、バルトメライ・ローレライ直々にカルデアに対する無用の手出しはしないことが約束されている。しかも、名だたる英霊の前で、だ。その約束を反故にすれば、サーヴァント……主に、古代王達の逆鱗に触れることは間違いない。……ロンドンのビックベンが爆発するぐらいの被害で済むといいのだが。

 潮騒の音に、砂浜を踏みしめる音が混じる。煙草の火をもみ消して、携帯灰皿の中に入れる。今の時代は、喫煙家に対する風当たりが強い。クー・フーリンに押し付けられる様に持ってきた携帯灰皿だが、実に便利だ。
 足音が、自分の傍らで止まった。視界の端で、緋色の髪が揺れる。膝に手をついて、息を荒げているのは走ってきたからなのか。前髪は汗で額に張り付いて、頬は赤くなっていた。

「あの」

 他人行儀な呼び方に、胸が冷えた。
 今のお前にとって、俺は他人だろう。ならば、放っておけばいいものを。どうして、そこまで必死になる。

「昨日は、ごめんなさい。泣かせて、しまった」

 日本人らしい綺麗なお辞儀と共に、その口から紡がれたのは謝罪の言葉だった。
 まだ、呼吸だって整っていないのに、無理やり喋ろうとする。

「あの、それでね、お詫びってわけじゃないけど……これ、貰ったから、よかったら一緒に行かない? カランクっていって、海の綺麗なところなんだって」
「え?」
「電車一本で行けるんだって。明日の朝……えーっと、十時にマルセイユ・サン・シャルル駅に集合ね」
「おい」
「十時だよ、忘れちゃ駄目だからね」

 彼女は俺の手にチケットを押し付けて、そのまま風のように去っていった。……俺の予定すら、聞かなかったな。もっとも、俺のスケジュールなど、全て彼女の為にあるようなものだが。
 だが、この強引さが酷く懐かしかった。





 マルセイユ・サン・シャルル駅は、マルセイユの中心部に位置しており、小高い丘の上にあり、駅を利用する為には長い階段を上らなければならない。パリに次ぐ、二番目の大都市のマルセイユの主要な駅ということで、平日でも中々の混み具合だ。かつては、船舶の乗り継ぎの為、アフリカや中東への旅行者に利用されていたらしい。
 駅舎は広く、壁がガラス張りの部分が多く、日の光が良く差し込んで眩しいぐらいに明るかった。ところどころに本物の木が植えてあり、兎に角オシャレというのはこういうことを言うのだろう。良く光合成が出来そうだ。

 よく分からないブランドの広告を見ながら、待ち合わせの時刻を待っていると、表口の方がざわついて、少し人ごみが出来ていた。何かイベントごとでもあるのだろうか。好奇心と野次馬精神を押さえつけずに、人ごみの方へ向かう。だが、三秒で後悔することとなる。

(な、何だあのイケメン!!?)

 そう、イケメンだ。紛うことなくイケメンである。一昨日は椅子に座ってて、昨日はクルーズに誘うことに必死で気がつかなかったが、頭身がおかしい。あれが噂の八頭身というやつか。股下長すぎて、笑えてくるレベルである。隣を歩きたくないやつだ。っはは、彼の隣を歩く人は可哀想だなあ、あっははは……

「歩くの私じゃん……ッ!!」

 もしかして、私はとんでもない人を誘ってしまったのではないでしょうか。どうしよう、途端に隣を歩くのが嫌になってきた。日本人の中では、特段手足が短い方だとは思わないが、欧米人と比べるのは酷な話ではないでしょうか。
 緩く波打つ白髪が日の光をうけて、キラキラと煌いていた。陶磁器のように滑らかな白い肌と、人形の様に整った顔立ちと相まって、精巧に作られたビスクドールの様な印象を受ける。
 服装一つとっても、非常に洗練されててセンスがいい。このブランドの広告の美女が横に立っても、多分霞むよ。
 それにしても、フランス美女って勇気があるんだね。凄い、声かけようとしてるよ。私だったら、絶対無理だね。

「おい、何をしている」
「ぅわッ!?」
「何故、木の陰に隠れる」

 背後からの唐突な声に、心臓が飛び出そうなほど驚いた。つい先ほどまで、まだ駅の入り口付近にいた気がしたのだが。
 彼は、私の服装を頭のてっぺんからつま先まで見ると、何か複雑そうな顔した。……そんなに可笑しな格好なら、素直にそう言っていただきたいのだが。

「……お前、マルセイユの日差しを侮っているのか?」
「え?」
「何故、帽子を被らない。次の日、地獄を見たいのか? 慣れている奴ならともかく、お前はまだ此処に来て日が浅いだろう。死ぬぞ」
「ひ、日焼けごときで、人は死なないと思い、ます……」
「はっ、生温いぞ。ただ痛みを訴えるだけではない。真の痛みは風呂に入った時に訪れる……ここで待っていろ」
「へ?」
「ここを動くな。待っていろ、いいな?」
「は、はい!」



 マルセイユに限らず、海沿いは基本日差しが強い。ノースリーブのワンピースで出歩いたら、日焼け止めを塗っているか否かは関係なく、帽子を被らないと酷い日焼けになる。そうでなくとも、もともと彼女は日焼けしたら赤くなる体質だ。何度も、オケアノスで酷い目に遭っているだろうに。
 駅近くの店で、目に付いた白い帽子を購入し、足早に彼女の元へ戻る。特異点やカルデアでは全く気にならなかったが、彼女の髪色は非常に目立つ。変な厄介ごとに巻き込まれるのは御免だ。

「そこの色男! 女に贈り物かい? それにしちゃあ、随分飾りっけのないプレゼントだねえ。愛想尽かされちまうよ?」

 声を掛けてきたのは、露店の商人の女だった。カラッと笑うその笑顔は、どこかドレイクに似ている。商売を生業とする女は、皆大胆不敵になるのか。

「……奴とは、そんな関係ではない」
「いやいや。そんな関係でなくとも、さすがにそれはないね。人格疑うレベル。あんた、顔が良いからって、何でも許されると思ってないかい? 駄目だねえ、全然なってない。さあ、うちの店で、もう一品選んでいきな! 良いもの揃えてる自信はあるよ!」
「……っふ、それが魂胆か」
「ご不満かい?」
「いや、商売というものは往々にしてそういうものだ。昔とった杵柄だが、俺にも心得はある」
「なら、話は早い」

 確かに、良いものを揃えていると豪語するだけあって、露店で出すにしては勿体無いぐらいの品揃えである。よくある旅行者向けのアクセサリー類が基本だが、作りは頑丈で、それなりに長持ちしそうだ。
 幸い、懐具合はそれなりに暖かい。多少値が張るものでも構わないだろう。これも黄金律Aの力か。こんなところで実感する日が来ると思わなかったが。
 ふと、露店の隅に置かれていた白いリボンが目に入る。光にかざして見ると、細かな紋様が刻まれていた。……そういえば、今の彼女は髪を結んでいなかったな。

「お目が高いね。それはちょっと遠いところの民芸品でね、魔除けの紋様が美しいだろ?」
「そんなものまで扱っているのか?」
「いやあ、たまたまさ。問屋に行った時に、たまたま目に入ったから卸してもらっただけさね」
「なるほど……これを貰おうか」
「あいよ。長さは?」
「髪が結えるほどでいい」
「髪の綺麗な恋人なのかい?」
「恋人ではないと言っただろう。まあ、綺麗な髪というところは否定しないがな」
「へえ、色は?」
「緋色だ」
「そりゃあ、珍しい。白のリボンは良く映えるだろうよ」

 これで、彼女の機嫌も取れること間違いなしさ。女はそう笑うと、綺麗な包みに入れたリボンを手渡した。豪快な性格とは裏腹に、こういった気配りやらは良く出来る商人だ。チップとして多めに渡した代金はキッチリ徴収されている。抜け目ない。





 電車に揺られること約二十分。バスは逃してしまった為、カシの町の駅からカランクまでは、ブドウ畑を横目に見ながら、徒歩で四十分ほどの道のりだ。
 特段、珍しい風景ではないが、彼女にとってはそうではないのだろう。物珍しそうに、キョロキョロと周りを眺めている。潮の香りと海風を浴びながら食事をするレストランが見慣れないのか、夥しいほどのクルーザーや小船が浮かぶ港が珍しいのか。

「余所見していると、迷子になるぞ」
「……そんなに子供じゃないもん」

 そう言うと、ツンと唇を尖らせて、そっぽを向いた。東洋人らしい童顔と、少し少女めいたデザインのワンピースによって、いつもの三倍は子供らしく見えるぞと言いたかったが、これ以上へそを曲げさせるのはよろしくない。
 思えば、いつも見ていたのは、年不相応な重たすぎる覚悟を決めた、凛々しい横顔だった。背負うべき、ではなく、背負わなくてはならない、『世界を救う』という、華奢な両肩で背負うには重たすぎる覚悟。仮令、どれほどその道のりが絶望的で、一縷の希望すら見えなかったとしても、彼女は進まなくてはならなかったのだ。今思えば、何と狂気的なことだったのだろうか。それでも、狂うことなく、折れることなく、前を見据え、未来を勝ち取った。普通の少女が全知全能の存在を打ち破り、世界を、未来を取り戻した。
 何と尊いことか。希望に満ちた英雄譚なのだろうか。だから、世界は少女を讃え、英雄として祀り上げる。本当の少女を知らない人間は、少女がただの人間だということを都合よく無視するのだ。
 もう、ここいらで自由にしてやったって構わないのでは無いだろうか。碌でもない考えが頭を過ぎった。酒も飲んでいないのに、酔っているのか。

 だが、俺の名はおろか、己が為した偉業をも忘却しようとも、その瞳に宿る光と、魂の高潔さは失われたりはしない。
 彼女を手放すことを出来ないのは……もう令呪すら宿らぬ、ただの子供の手を未練がましく繋ぎとめるのは、他の誰でもない俺だ。初めて手にした勝利の栄光の味は失いがたく、共犯者という立場に酔いしれたのだ

 彼女と俺の間に、もうパスは殆ど無い。魔力源はカルデアからのバックアップとはいえ、サーヴァントを現世に繋ぎとめる頚木はマスターたるこの少女で、カルデアからの魔力をサーヴァントに供給するのも彼女だ。
 供給の方法を変えない限り、後数日で座に帰還することになるのだろう。一回の戦闘に耐え得るかどうかも怪しい。現界する為の魔力を生み出す為に食事を摂り、魔力の消費を抑える為に人のように眠る。だが、それにも現界がある。
 明日には、一度カルデアに帰還する為に此処を発つ。今日誘われたのは僥倖だったのかもしれない。今すぐにでも記憶が戻れば、さっさと攫えてしまうのに。

「エド、見えてきたよ。教えてもらった、誰もいない浜辺」

 何かがかき消された様な痕のある右手が、真っ直ぐと前を指し示した。木陰が途切れて、差し込む日差しが目に痛い程に眩しかった。手で庇を作って、日の光から目を庇う。
 眩しさに目が慣れてきた頃、ようやく前を向くと、眼前に広がっていたのは、白い石灰石に囲まれたコバルトブルーの入り江だった。空の天蓋はどこまでも高く、海の色を反射したかのように青い。透明度が高い浅瀬は底が透けて見え、流木が宙に浮いているかのように見えた。
 本当に、人一人いなかった。ここにいるのは、俺と彼女だけだった。

「エド! 海、冷たいよー!」

 彼女は既に、海に足を浸して、その冷たさにはしゃいでいた。膝丈のスカートの裾を少し持ち上げて、水面を少しだけ蹴り上げた。飛沫は日の光を浴びて煌き、海水で濡れた少女の白い足も眩しかった。

「あまりはしゃぐと、海の中で転ぶぞ」
「だから、そんなに子供じゃないって!」

 海風で帽子が飛ばされないように左手で押さえつけながら、小さく笑い声を上げて、一人で水遊びをする姿のどこが子供ではないというのだ。

「エドもおいでよ、楽しいよ!」

 一際大きく海風が吹いた。フワリと少女のワンピースと、緋色の髪が舞う。晴れやかに笑うその表情は、あまりにも幼い。
 もう一度、手で庇を作る。水面に反射した日光が眩しかっただけだ。決して、眼前で一人、水遊びをする少女が眩しかったわけではない。





 お腹が切なげな鳴き声をあげたのは、どちらが先だったか。あまりに間抜けな音に、思わず二人して吹き出してしまった。お腹が痛いってヒイヒイ笑ってると、もう一度大きくお腹が鳴って、また笑った。
 水を掛け合いっこ(というか、一方的に浴びせられただけの気がする)のせいで髪は湿って、ワンピースも所々濡れてしまった。軽く絞ると、濡れてるところはちょっとだけ雫が垂れて、砂浜に小さな染みを作った。帽子は脱いでいたから、難を逃れることが出来た。(帽子の意味が無いと怒られたが、これだけはどうしても汚したくなかったのだ)

「おい、こっちに来い」
「え? うわっ、タオル? こんなのも持ってたの?」
「海に来るなら、必需品だろう」

 頭に被せられた白いタオルで適当に髪を拭いてると、『雑に拭くな』と頭をワシャワシャされた。ちょっと手つきが乱暴で、頭がグラグラ揺れる。

「犬じゃないんだからさ! もっと丁寧にやってよ!」
「クハハハハ! 子供にはそれくらいで充分だろう!」
「だからー!! 子供じゃないって言ってるじゃん!」

 この人は、ことあるごとに私を子供扱いしようとしてくる。私は立派な、あれ……私、幾つだったっけ。そんなことも忘れちゃったのかなあ。

「おい、そこで何を惚けている」
「今行きますよー。ほら、そっちもうちょっと詰めて。日陰から足出ちゃうじゃん」

 白い石灰石の崖を背もたれにして、砂浜に座ると、太陽の位置の関係でちょうどいい日陰が出来ていた。紙袋から、カシの港町で買ったバゲットサンドを取り出して、エドに渡す。バゲットサンドって、色んな種類があるんだね。すっごい目移りしちゃった。

「そっちの味は?」
「ヤギのチーズと、グリル野菜」
「随分と挑戦したな」
「だって、美味しそうだったし。そっちは?」
「クリームチーズとトマトとバジルだな」
「オーソドックスだね」
「だが、旨い」
「それは言えてる!」

 買った時はそれなりに柔らかさがあったが、温度を失うと同時に柔らかさも失うのか、食べるのがちょっと大変だ。フランス人って固いもの好きなのかな。顎強そう。
 ヤギのチーズは味が濃いが美味しかった。ローズマリーやタイムとかの香草が入っているおかげで、匂いは気にならなかった。お店のいじさんも『良いヤギからとれた良いミルクを使っているから、味や匂いにクセはない』って言っていた(そう言っていると、エドから教えてもらった)

「エド」
「何だ?」
「ほっぺにパン屑ついてるよ」
「……慈悲などいらぬ」





 真っ赤な夕日が、水平線の向こうに落ちてゆこうとしている。あれだけ青かった空は、金色と赤色が混ざり合った不思議な夕焼けの様相を呈していた。昼間は、空と海の境界線が消えてしまいそうだったのに、夕方になると境界線は溶けてしまいそうに見えるのは何故なのか。
 運よくカランクからカシ行きへのバスに乗ることが出来た。乗客は、私とエド以外にはいない。死んだように眠るエドの吐息と、バスのエンジン音以外、何も聞こえない。何も、聞きたくない。

 此処に来て三週間、一つだけ分かったことがある。私は此処に来る前のことを忘れ、自分自身を忘れ、自分の名すら忘れ、そして、最後には忘れたことすら忘れる。きっと、家に来る人たちから渡される薬が原因なのだろう。最初は、何の薬かを尋ねていた筈だ。でも、正確な答えは聞いていない。曰く『栄養剤』だの。曰く『未認可の臨床用の薬』だの。曰く『その頭痛を取り除く為のもの』だの。残念ながら、毎日欠かさず飲んで、頭痛がしなかった日はない。
 なら、飲まねば良いだろう。私もそう思った。実際、飲む振りをしてトイレに流したが、三分でバレて無理やり、文字通り無理やり飲まされた。それ以来、トイレに流すことはしていない。
 
 エドに出会い、そして泣かれ、私はそこでようやく自分が『何かを忘れている』ことに気がついた。なのに、何を忘れたのかが思い出せない。思い出そうとすると、頭の底が嫌な風に痛んだ。

「……今日のことも、明日には忘れてるのかな」

 右手で、寝ているエドの左手を握った。どこかヒヤリとした印象なのに、意外にも手は暖かくて、心地よかった。
 今日は凄く楽しかった。楽しいという言葉じゃ片付けられないほどに、楽しい……否、幸せだった。
 帽子をくれたの、凄く嬉しかった。
 水遊びは多分生まれて初めてした。
 一緒に食べたお昼は、海風の所為でちょっぴり塩辛かったけど、美味しかった。
 でも、朝が来たら忘れてしまう。こんなに楽しい思い出なのに、美しい光景なのに、私は何もかも等しく平等に忘れる。初めて、そのことに恐怖を覚えた。今まで、忘れても構わないって思っていたのに。忘れることに、何も感じなかったのに。なのに……

「……これ、全部エドのせいだよ」

 目が痛いのも、視界が歪むのも、鼻の奥がツンとするのも、全部エドの所為だ。嗚咽が漏れないように、必死で堪える。私の記憶には残らなくても、エドの記憶には、今日は楽しい一日だったことだけが残ってほしいから。

「エドは、私が誰なのか知ってるんでしょ? 私の名前も、今までの私も知ってるんでしょ?」

 きっと、会いたかったのは私(マユキ)じゃないんだよね。だって、貴方は一度も私の名前を呼んだことないんだもん。何も無い私は、貴方の会いたかった人のそっくりさんでしかないのだ。
 あの時の涙も、私の為のものじゃない。ずるいなあ、忘れる前の私は。でも、今日のエドは私だけのものだ。

「だから、忘れたく…ないのになあ……」

 結局、涙は堪えられずに、白いワンピースに小さな染みを作った。






 藤丸立香に関する報告書

 本日、*月**日、三度、藤丸立香と呼びかけるも、全くの応答なし。自分を藤丸立香として認識していないというよりも、聴覚そのものが『藤丸立香』という単語を認識することを拒否しているかの様な反応だった。実験の第一段階はクリアされた。
 新たに、マユキという真名を与えるも、魂への定着が薄いのか、反応は薄い。時間をかけて、自身がマユキだと認識させるほか無い。
 だが、時間をかければ、確実にマユキと藤丸立香の存在はすり替わる。そうすれば、我々が用意した魔術師をサーヴァント達に『藤丸立香』だと認識させることか可能になる
 カルデアを掌握することも、現実的な話になる日は近いだろう。






 マルセイユに着くと、もうすっかり夜になっていた。家まで送ると言われ、最初は断ったが、何となく離れがたくて、海沿いの家まで送ってもらった。会話はほとんど無かった。もともと、エドはあまり喋るタイプではないのだろうか。私とエドの間に横たわる沈黙を前に、何を話せばいいか分からなくなってしまった。
 夜の闇は色濃く、身長差に加え、もともと夜目の利かない私に、エドの表情を窺い知る術はなかった。
 ああ、もうすぐ家に着いてしまう。何か話したかったのになあ。

「……明日」
「?」
「明日、マルセイユを発つ。ここには、仕事……で来ていた。それが完了したから、もと居たところに戻る。それだけだ」

 頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が、頭を襲った。息が上手くできなかった。
 私には、エドが何を言っているか分からなかった。分かりたく、なかった。

「まあ、世話になったな」
「……会えないの?」
「……」
「もう二度と、君に会えないの?」

 バスの中で流しきった涙が、もう一度溢れてきた。ポタリ、ポタリとコンクリートの上に落ちてゆく。
 一昨日と立場が逆だな。エド、慌てたりするんだ。

「また、会えなくなるのは……嫌だなあ」

 この世界に永遠なんてないけれど、こんなに早く別れが来るとは思わなかった。
 不思議と、泣き叫ぶほどの激情に駆られるわけじゃないけれど、それでも悲しくて、涙が流れた。自分の感情を体が切り離されたみたいだった。

「……?」

 涙で揺らめく視界の淵で、何か煌いた。街灯じゃない。もっと、何か、不味いものだ。何か良くないものが、凄いスピードでこっちに向かってくる。まずい、避けないと。でも、影が縫いつけられたかのように動かない。

「――あ、」

 瞬間、黒炎が揺らめいた。怨嗟の塊の様な禍々しい炎。だけど、それが剣であり、盾でもあることを私は知っている。

「エド……ッ!!」
「ふん……こんな往来で、一般人を襲撃か。神秘の秘匿とやらはどうした、魔術教会」

 エドがそう言うと、遠くの空間が陽炎のように揺らめいて、十数人の人が現れる。あれが魔術教会……? 私の家に来ていた人たちに見えるのだが。
 困惑する私を他所に、場の空気は剣呑なものになる。エドの殺気は、刺すほどに鋭かった。

「何、本日を以って、実験は成功したのでね。そこの実験体を始末しに来ただけのことだよ」
「何だと……?」

 中央に居た偉そうな、眼鏡をかけた老人は私を見ると、蔑むように鼻で笑った。……腸が煮えくり返りそうだ。

「名は、我々神秘を扱う魔術師にとって、非常に重要なものだ。真名は魂に刻まれたもの、ならば、その名を改ざんすれば、その魂は別の存在となるのか……気になるテーマではないのかね?」
「なるほど……記憶を消し、こいつの真名を改ざんしたのか。
愚かにもほどがあるぞ、魔術師どもが!! 我々が何の報復せずにいると思ったか!!」

 ビリビリと大気が震える。これは怒りだ。人を殺せるほどの、強い怒り。それに呼応する様に、エドの纏う黒炎が大きく揺らめいた。

「何とでも言うがいい、サーヴァントよ。契約者からの魔力供給がなければ、現界することすら叶わん、使い魔風情が!!」
「本性を現したな、魔術師。耄碌したか? 貴様が追い求めた存在が、俺たちサーヴァントだろうに。……マスター!」
「ッ!」

 マスターと呼ばれた瞬間、魂が震える感覚を覚えた。心臓がドクンッと、大きく脈を打つ。心が震えるのは何故か、怒り? 憤り? いいや、違う、これは歓喜だ。私は、彼のマスターだ。ああ、そうだ! どうして今まで忘れてたんだ!
 
「下がっていろ、すぐに終わらせる」

 バサリと音をたてて翻るのは、モンテ・クリストの紋章が刻まれた外套。これが、彼の正装だ。
 怨念によって燃え盛る黒炎を操り、彼は魔術師を一切近づけない。だが、どこか違和感を感じた。彼は負けない、それは疑いようのないことだ。だが、攻撃に転じることは出来ないのは何故だ? どうして、防御に専念を……?

「ふん、魔力切れか。いくら強い力をもったサーヴァントとはいえ、魔力がなければ、ただのゴーストと変わらん。その炎とて、執念で燃やしているようなものだろう。ダメージを食らえば、すぐにも消滅する。あっけないものだ」
「そんな……!!」

 魔力切れなんて、起こるはずがない。ちゃんとパスさえ繋がっていれば、私を介して、****から魔力が供給される筈だ。
 ****? 私は一体何を言って……?

 こうしている間に、戦況は徐々に悪い方向へ傾いていく。どうすればいい。一番は彼に魔力を供給することだ。だが、実際問題、私の魔力なんて微々たるもので、そのうえ魔力回路だって錆付いて、閉じかけている。こんなお粗末な回路では、碌に魔力を生み出すことすら出来ない。ああ、何でこんなことになっているんだ。
 不意に、老人の言った言葉が引っかかった。サーヴァントの契約には、真名が不可欠だ。否、真名が分からなくとも、魔力供給に何の問題もないが、***がそうだったように宝具の真名開放が行えない。だから! 何で私の記憶はこうも穴だらけなんだ!
 ……もしかして、契約が切れかかっているのか? パスがほとんど切れかけているのも、その所為なのか? 
 なら、真名さえ分かってしまえば、再契約することだって、可能な筈だ。……その真名が分からないのが、一番の問題なわけなのだが。
 とりあえず、魔術回路を開くべきだ。ええっと、確か、イメージは……

 (銃の撃鉄を、起こす!)

 脳裡に描いた撃鉄が起き上がった瞬間、瞼の裏で光の筋が幾重にも走る。それは規則的に並べられた電子基盤を想起させた。
 光の筋が体に走る度に、形容しがたい痛みと共に魔力が通る感覚がした。……何度経験しても、この痛みだけは慣れない。一部、回路が錆びきっているところもあるが、供給するだけなら、これだけで構わないだろう。

「後は、真名さえ思い出せれば……!!」

 思い出せ、思い出さなきゃ……!! 答えは、既に喉元まで出掛かっているのに、どうして思い出せないんだ!
 焦れば焦るほど、思考は停止していく。呼吸が浅くなる。
 目の前で、苦境に立たせる彼を見つめることしかできないのか……? なら、何で私はここにいる! 何の為のマスターだ! 勝たせることが、勝利させることが役目だろう……!!

「ッ……!!」

 無意味だと分かっているのに、右手を伸ばしたのは何故なのか。退魔力を持たずとも、現代の魔術師では彼を傷るけることは叶わない。頭では理解している。だが、嫌な予感が止まらないのは何故だ。警鐘が頭の中で鳴り響いているかのように、激しい痛みが脈打つ。
 外套の裾が光に溶けている。もう、時間がない。
 思い出せなければ、このまま彼は――!


「――大丈夫です」


 凛とした、それでいて優しい少女の声。聞き覚えのある、心地よい声。

「貴女は思い出せる。私は……いえ、私達は信じています」
「……ッ!!」
「大丈夫」

 伸ばした右手を、銀色の籠手に包まれた少女の手に握られる。その勿忘草色の瞳には、私を信じて疑わない、力強い輝きが宿っている。
 スルリと、リボンが解けるように、その言葉は簡単に口を突いて出た。



「アヴェンジャー――」



 ああ、そうだ。彼の名は――!
 右手の甲が、焼き鏝を押し付けられたかのように痛んだ。三角の紋様――令呪が蘇る。



「――巌窟王、エドモン・ダンテス!!!!!」



 夜の闇の中で、赤々と輝く魔力の奔流。パスが繋がる感覚がした。
 体の中から、急激に何かが抜けていく感覚に眩暈を感じて、よろめく。でも、この光景だけは目に焼き付けなければならない。
 目を見開いた。もう二度と忘れないように。
 ――この凄惨たる光景こそ、復讐の神話に相応しい!


「クハハハハハッ!!!!!! 待ちくたびれたぞ、マスター!! 我が共犯者!!
今より、この身に宿る恩讐の炎は、貴様の剣となり、盾となろう!! あらゆる艱難辛苦を乗り越えた、長き旅路の果てに、せめて一縷の希望が残らんことを!!!」


 アヴェンジャーの黒炎は、バチバチと青い火花を散らしながら、煌々と燃え盛る。腕を振るい魔力を投射する際に響き渡る轟音は虎の咆哮の如く、海辺の静寂を切り裂いた。
 この戦いに慈悲はなく、生殺与奪は全てアヴェンジャーではなく、彼の主たる立香が握っている。彼女が望めば、この場にいる全員の命を絶やすことなど、アヴェンジャーにとっては赤子の手を捻るよりも容易いことだ。
 魔術師達は恐怖した。自分たちが手を出したのは、己の身を守る術を持たない、非力な少女などではない。あらゆる猛獣の寵を受けた、虎の子だ。

「幸い、俺は無辜の人間を手にかけるほど、落ちぶれてはいない。己を罪なき者と定義するならば、俺に背を向けることを許そう。ああ、そうだ。お前らの好きな慈悲をくれてやる」

 アヴェンジャーの言葉に、魔術師達は蜘蛛の子を散らす様に逃げ惑う。生存本能に従い、己の命を脅かそうとする脅威から逃げるのは、人間として当たり前のことだ。
 立香は、散っていった魔術師達をどこか冷めた目で見ていた。

「逃がしてよかったのか? アヴェンジャー」
「敵の首魁は、既に旗の聖女が捕らえている。この事に加担した奴らも、漏れなく魔術教会が捕まえるだろうよ。
何だ? それとも、全員殺してほしかったのか?」
「……そういう言い方、ずるいと思う」
「悪かったから、そうむくれるな。俺はその顔に弱い」
 
 そう言うと、アヴェンジャーは立香の顔を覆い隠す様に、自身が被っていた帽子を被せた。むがっという色気のない声に、つい笑ってしまい、帽子で見えない顔はさらにむくれた。

「全て思い出したのか?」
「まだ。でも、いつか必ず思い出すよ、全部ね。忘れたままにしておくには、勿体無い思い出ばっかりだから」
「……そうか」
「うん……そうだよ。一昨日の君の泣き顔も、今日のパン屑つけた君の間抜け面も、私だけの大切な思い出だから!」
「貴様、燃やされたいようだな」

 夜の海をバックに行われた優雅な鬼ごっこは、一人忘れられたと啓示によって気づいたジャンヌ・ダルクが、簀巻きにした老人を引き摺りながら、怒鳴り込んでくるまで続いた。





 今日は、また一段と暑い日だった。カフェのカウンターに置かれた、時代遅れの古ぼけたラジオはガサガサというノイズ混じりの音声で、『熱中症に気をつけろ』と注意を促す。
 炎天下の掃き掃除に、クラリと眩暈がするのを感じた。日差しを浴びすぎたのだろうか。少し動いただけで、大量の汗が流れた。制服の半袖カッターシャツが、ペタリと背中に張り付いて気持ち悪い。マルセイユは港町だというのに、今日は風が吹かない。パタパタと襟元を仰いで、服の中に風を送り込もうとするが、残念ながら効果はない。体温を下げるには、早く掃除を済ませて、冷房の効いた涼しい店内にいるのが手っ取り早いだろう。フッと軽く息を吐いて、一度止めた掃除の手を、もう一度動かした。
 マユキが店に来なくなって、もう一週間が経とうとしていた。マユキに、あの伊達男と仲直りしてもらう為にチケットを渡したが、彼とはどうなったのだろうか。もし、マユキと伊達男がああいう関係になっていたら、俺は二度と立ち直れない気がする。
 憂鬱な気分で磨いたグラスは、心なしか曇っているように見えた。もう一度、布巾で磨きなおす。これで五度目だ。
 古いドアベルが、カランと軽やかな音をたてて、来客を知らせた。「ボンジュール、ビヤンブニュ」と、覇気のない声で挨拶をし、涼を求めて来たであろう客に目をやった。

「なっ……!!」
「ぼんじゅーる、エクトル。えっと……さ・ふぇ・ろんとん(久しぶり)」
「マユキ! もう来ないと思ったんだぞ!」
「それは、ごめんね」

 申し訳なさそうに笑うマユキの顔は、どこか大人びていた。迷子の子供の様な表情が消えうせ、どこか凛とした雰囲気が漂っている。
 何故か、言葉を失った。

「一つ、謝りたいこと、あるの」

 だが、片言なフランス語は変わっていなくて、それだけは安心した。

「クルーズのチケット、使わなかった。ごめんね。これは君が、大切な人と使って」
「え? そんなの全然構わないって!」

 慌てて、両手を振るジェスチャーで、怒っていないことを伝えると、安心したように息を吐き、「めるしー」と言ってはにかんだ。
 ……可愛らしいフランス語も健在だ。

「それと、今日は、お別れ、言いに来ました」
「え……?」
「今まで、ありがとう。エクトルと話すの、楽しかったよ」

 そして、フワリとマユキは笑った。今まで見た中で、一番可愛い笑顔だった。
 俺は何も言えずに、マユキが去るその背中を見つめていた。
 口の中がカラカラで、声が出ない。足も、手も動かない。行かないで欲しいと言えたなら、どんなに……!!

「ッうわ!?」
「何をボサッてしてんだ、小僧。今見送らなかったら、一生後悔するぞ」
「ッ……!!」

 親父の言葉に背を押される様に、俺は弾かれるように走り出した。二度と会えなくなるのは嫌だ。でも、マユキに見せた最後の顔が情けないなんて、絶対に嫌だ。マルセイユの男なら、どんな時でもかっこよくいろ!
 店を出ると、暴力的に降り注ぐ日差しが襲ってきた。引いた汗がまた流れてきて、もう一度眩暈がする。
 後悔の残らぬよう、大きな声で、その名前を呼んだ。

「マユキッ!!!」

 まだ、そこまで離れた位置にはおらず、俺の声は届いた。驚いたような顔をしていて、ちょっとだけ嬉しくなった。
 マユキの傍にいるのは、金髪と紫の瞳が印象的な絶世の美少女と、伊達男!? なんで此処に!?

「エクトル?」

 マユキの声にハッとする。そうだ、俺は伊達男を見に来たんじゃない。マユキの見送りに着たんだ。
 もう一度、大きな声を出した。

「サリュー(またな)! マユキ!
また、うちの店来いよ、絶対だからな!」

 その時、全く吹かなかった海風が、大きく吹いた。マユキの白いワンピースの裾がフワリとはためき、その燃え上がる様な緋色の髪を縛っていた白いリボンが揺れる。
 マユキは輝くような快活な笑顔で、挨拶をした。

「オ・ルヴォワール! エクトル!」

 最後に聞いたマユキのフランス語は、今まで聞いた中で一番綺麗だった。
 きっと、彼女は俺の知らない世界に行くのだろう。そして、俺の知らない世界で生きていく。俺は、町の寂れたカフェのアルバイターとして、生きていくのだろう。
 一生交わることのない人生を歩むはずなのに、出会ったのは神様の思し召しか。
 俺はきっと、あの緋色の髪の少女を一生忘れない。