
一筋の光すら届かない深淵で、絶望などという言葉では収まらないほどの苦痛を経験した男。
光溢れる世界で、けれど一歩踏み間違えれば全てを失う恐怖に耐えながら歩み続けた少女。
重なる筈のなかった二人の運命が交差した時、それぞれが見たものは同じだったのか、それとも―…
「マスター、コーヒーを淹れてきたが飲むか?」
「ありがとアヴェンジャー、丁度休憩しようと思ってたところなんだ」
カルデア内にある資料室の一つ。
多くの資料室の中では比較的小さな部屋ではあるが、書架にびっしりと並べられた資料の山はかなりの迫力がある。清掃も行き届いている為ホコリっぽいということもないが、空気の吹き溜まりのような息苦しくも感じられる小さな空間は、長居するのにはとても居心地のいいものとは言えないだろう。
そんな部屋にぽつんと置かれた小さなデスクいっぱいに資料を広げて今にも紙の山に埋もれそうになっていた少女は、男の訪問と共に部屋に漂ったコーヒーの香りに頬を緩めつつ、コーヒーが置けるようにデスクの上を片付け始めた。
「査察団対策か?」
「うん。重要な情報とかは管制室のみんながデータ化したものを持ってるから、私が出来ることは少ないんだけど。でもこうして書類の整理くらいは手伝わないとね」
「人理修復の任を終えて尚、休む暇なしか」
「働かざる者なんとやら、って言うしね」
デスクに出来たスペースに二人分のマグカップを並べる。
部屋の隅に追いやられていたもう一脚の椅子を引きずって彼女の向かいに並べると、アヴェンジャーはそこに腰を落ち着けてチラリとデスク上の資料へ目を向けた。
彼女がこうして整理するのを手伝えるほどなのだから、それ程秘匿度の高い資料ではないのだろう。
しかしいくらカルデアの人手が足りないからと言って、救世の任を終えた彼女が小間使いのようにせかせかと雑用をこなしている姿は何ともおかしなものだと思う。
そこが彼女の良いところだと言えば、確かにそうなのだが。
やや複雑な気持ちを抱きながらコーヒーを口に含んだ男に対し、彼女は自分用のコーヒーに当然のように予め砂糖とミルクが入れられていることに気付いて、緩んでいた頬を更に緩めて相好を崩していた。
こういう細やかな気遣いをさらりとこなしてしまう辺り、彼本来の人格が窺い知れる。
そもそも彼女がこの資料室に籠っていることだって一部の職員しか知らなかった筈なのだが、一体どこから聞きつけたのか。敢えて深くは追及しないが、彼がずっと自分を気にしてくれている証のようで何だか照れくさいとすら思えてしまう。
「やっぱりアヴェンジャーが淹れてくれたコーヒーは美味しいなぁ」
「それは何よりだ」
「私本当は紅茶派だったんだけど、バレンタインにアヴェンジャーが淹れてくれたコーヒー飲んでからすっかりコーヒー派になっちゃった。前までは苦いとしか思わなかったのに、不思議だよね」
「……そうか」
こうも楽観的でお人好しの少女が、よくもまぁあんな修羅場を潜り抜けてきたものだと改めて思う。
勿論、彼自身その手助けをした一人であり、彼女一人の力で成し得たことではないとも理解しているが、それでもこうして普通の少女と何ら変わりない―…否、一般的よりも若干純粋すぎるようにも感じられる無垢さを覗かせる彼女を見ていると、そう思わずにはいられないのだ。
「やっぱり資料整理って慣れないからちょっと疲れてたのかな、コーヒーがいつもより体にしみるよ」
「……お前のサーヴァントとしては、あまり根を詰めて働くよりもじっくり休む事を勧めるが」
「ありがと。その気遣いは嬉しいけど……でも、私もあんまりうかうかしてられないから」
眩いほどにきらめく大きな瞳に、長い睫で薄らと影を落として伏し目がちにそう呟いた彼女は、コーヒーが少し熱かったらしくマグカップに息を吹きかけながら、敢えて平静を取り繕っているように見えた。
「魔術協会の人達が来て、設備が完全修復されて準備が整ったら……コールドスリープされてたマスターのみんなが目を覚ますでしょ?」
「……そんなことか。たとえ他のマスター達が目を覚ましても、お前が人理修復を成し遂げた唯一無二である事実に変わりはない」
「そうだね、そう……なんだけど。今は私と契約してくれている皆も、それぞれ優秀なマスターの人と契約することになるんだろうなぁと思ったらちょっと寂しくて、つい」
「……」
彼女はカルデアに入所したマスターの中では所謂“補欠”要員でしかなかった。
魔術師とも呼べない魔術師。
だからこそレフ・ライノールに見逃され、それが結果的にここまでの成果を生んだ事に間違いはないのだがそれが元通り集団の中の一人へと還れば、いくら冠位を与えられたとは言え何の後ろ盾もない彼女は再び意見する自由も主張する権利もない、その他大勢へと押しやられてしまう可能性が高い。
無論、それを黙って看過する者ばかりとも限らないが。
だからと言って逆に目立ちすぎるのもよくない。何故なら彼女が成し遂げた成果や功績が大きすぎるが故に、それを“運悪く”掴みそこなった者達の嫉妬や憎しみを買いかねないからだ。
そんな人間の浅ましい醜さを、彼女の目の前で静かに佇む男は誰よりもよく知っていた。
恐らく彼女は自分の置かれている状況をよく理解している。
これから先、サーヴァントや化け物相手ではなく自分と同じ人間を相手に立ち回ることが如何に難しいことであるのかも、その厄介さも、よく理解している筈だ。その上で、彼女は自身の立場への不安をこぼすのではなく、自分と戦ってきた者達との関係が変わってしまう事のみを嘆く。
一見、あまりに愚かな思考回路に思えるが、アヴェンジャーたる彼にとってはこれ以上ないほど喜ばしく歓迎すべき選択だった。
「……そうだな、他のマスターが目覚めればサーヴァント達もそれぞれ割り振られることになるかもしれん」
「うん、大丈夫。これでさよならになる訳じゃないんだし、カルデアで一緒に戦う仲間って事に変わりはな、」
「俺はお断りだが」
「え?」
コトン、会話が途切れた部屋を満たす静寂に乾いた音が響く。
ただアヴェンジャーがマグカップをデスクに置いただけなのだが、その音が狭い室内の空気の温度を一気に変えたような雰囲気さえ感じられた。
「俺は断る」
「な、んで……」
「それはお前が最もよく知っている筈だが?俺は他のサーヴァントとは違う、戦士でもなければ王でもない。戦う事に意味も誇りも見出さない、ただ恩讐の炎を燃やすだけの存在だ。聖杯などに託す望みすらない俺が、どうして何の義理もない他の魔術師に付き従う事が出来ると思う?」
「アヴェンジャー…―それは、私には嬉しい言葉だけど、でも私はもう―…」
もう、特別ではない。
貴方に導いてもらって辿り着いた先にあったのは、過去と変わらない未来。
全く何も変わらないわけではない、むしろこれから変わっていくのだろうと思う。
今までずっと傍で支えてくれていたマシュも、新しい体と環境を得て本当の意味で自由を手にした。
彼女をいつまでも自分が“マスター”という権限でこの場所に縛り付けていいものなのかという点を考えた時、マシュがここから出る自由を選ぶ時がやってくることだって有り得るかもしれないと気付き、今まで傍にいた人が、その関係性が変化していくのだということを強く実感していた。
この未来を後悔することはない。記録からは消されてしまうが、彼女の記憶に確かに残っている駆け抜けた怒涛の日々を心の底から誇りに思っている。
けれど今の自分は、みんなの――彼にとってはもう、特別な存在ではない筈。
いつまで彼のマスターでいられるのか、いつこの関係に終わりが来るのか―…もっと問題があちこちに山積みだというのに、そんな自分本位な悩みに縛られてしまうちっぽけな小娘でしかないのだ。
言葉にするには憚られる複雑な思いを前に彼女が言葉を詰まらせていると、男はそんな事も全てお見通しであるかのような笑みを浮かべながら、すっと自らの手を差し伸べてきた。
「アヴェンジャー?」
「俺の手を取れ、ただそれだけでいい。……俺は、お前という“共犯者”を求めた。そしてお前は俺の呼びかけに応じて手を取った。俺がお前に固執する理由など、それだけの事実で十分だ。何せこんな復讐者に力を貸そうなどという奇特な魔術師は他にいないだろうからな」
――だから、俺の手を取れ。
彼の目が力強く訴えている。
彼の言葉はある種の詭弁だ。けれどこれ以上嬉しい言葉が他にあるだろうか。
マスターが求めたから応じたのではない。
自分の求めにお前が応じろと、彼は言っているのだ。
少女の目に涙が滲みそうになる。
卑屈にはなるまいと、全てを受け入れなければと、どれだけ心を奮い立たせても、寂しさだけはどうしても拭い去る事ができなかった。
けれど彼は、そんな彼女の人間らしい醜く愚かな感情すら全てを飲み込んだ上で、これから先も共に歩んでくれると言うのだ。それは詰まる所、彼女が自らの心に染みついた薄暗い影を認めることにもなる。
けれど、彼女にその手を振り払う選択肢など何処にも無かった。
「……ありがとう、アヴェンジャー。これから先何があるか分からないけど、でも最後まで君の相棒として相応しい私であれるように努力するよ。……うん。アヴェンジャーがいれば、寂しくないね」
差し出された彼の手に自分の手をそっと重ねると、その大きさの違いにじんわりと胸が熱くなる。
彼は戦う時、手をよく使う。
戦闘時この手から弾き出されるものは黒く禍々しい恩讐の炎であるというのに、今彼女の手を受け止めた彼の掌は、救いの象徴であるかのような穏やかな温かさを帯びている。
「……この手で、ずっと助けてくれていたんだね」
最後の決戦の時、彼の煙草の火を点けたことを思い出す。
よく考えれば、手を酷使する彼の戦闘スタイルでは真っ先に傷つくのが手なのは当たり前のことだった。
彼が傷ついたならば、また火を点けよう。
私が傷ついたならば、彼が火を灯してくれる。
どれだけ小さくとも消えない光があるのだから、どんな暗闇に堕ちようとこの手を離さない限りは、きっと何があっても大丈夫。
彼女の心の中に蔓延っていた薄暗い寂しさがさらさらと消滅していく。
まるで、重ねた手を通じて闇の眷属たる男が彼女の闇を吸い取ってしまったかのように。
「お前がこの手を求めるならば、いつでも差し出そう」
「もう差し出さなくていいよ」
「何?」
「だって、もう離してあげないから。私がマスターでいる限り、アヴェンジャーはずっと私のサーヴァントでいてくれるんでしょう?ならもう私たちはずっと一緒だよ、だから改めて差し出す必要はもうない。そういうこと」
男が瞠目している隙に彼女は重ねた手を一瞬だけきゅっと握ると、すぐにぱっと手を離して再びマグカップを手に取り、既にぬるくなり始めている筈のコーヒーに息を吹きかけながら照れくさそうにはにかんだ。
――彼女は愚かだ。
男の言葉の意味を、半分以上理解したところで彼女の思考は止まっている。
防衛本能からなのか、それともまだ何か彼女の心を堰き止めるしこりが残っているのか。
『私がマスターでいる限り、アヴェンジャーはずっと私のサーヴァントでいてくれるんでしょう?』
無論、その通りだ。
しかし、この男が『固執する』と言ったからにはそれで済む訳がない。
例え主従の契約が消え去ったとしても、彼女が自分を求めるのなら――否、自分が彼女を求める手を伸ばせる限りはどこまでも執着してみせる。
それがアヴェンジャーの―…この男の本性だということに、愚かな少女は気付いていない。
「……美味いか」
「うん、今度は私が淹れてあげるよ」
「それは楽しみだ」
「ふふ、淹れ方教わらないとね。……と、そろそろ片付け再開しようかな」
「仕方ない、俺も手伝おう」
「本当?ありがと、」
「その代わり、もう一度手を貸してくれるか?」
「え?手を……?」
彼女の言葉に重ねて、やや性急に彼が再び手を差し伸べる。
先程のものとは違う何かを感じつつも、特に拒む理由も見つからなかった彼女は首を傾げながらも「はい」と素直に手を重ねた。
「いい子だ」
「っ!ちょっ、アヴェンジャ…っ!?」
重ねた手を掬い取られ、そのまま引き寄せられた先は彼の口元。
驚いた彼女が何事かと問いただすよりも先に、愉快そうに歪む彼の瞳に牽制されて思わず言葉を飲みこんでしまった。
そしてその隙に、男は彼女の手首にそっと口付けを落とす。
ゆっくりと、見せつけるように。
そっと、薄い皮膚の感触を、その下に巡る血潮の熱を確かめるように。
ほんの数秒の僅かな接触ではあったが、彼の尋常ではないオーラと目の光を目の当たりに、さすがの少女も彼の中に潜む何かを察するには十分だっただろう。
「な……いきなり、何、どうして……」
すぐに解放された手を引っ込めた少女の顔がほんのり色づいているのを眺めて上機嫌な男は、上着を脱いで椅子に掛けながら喉でくつくつと笑って彼女の羞恥心を煽っていた。
「さぁ、どうしてだろうな?」
「からかってるの?」
「まさか!そう焦るな……まだまだ長い付き合いになる、その内理解できるだろう」
「それって……『待て、しかして希望せよ』ってやつ?」
「ハハハ!そうだ!そうだな、それでいい。だがこの場合、希望するのは……」
「ん?」
「……いや、何でもない。さっさと片付けるぞ」
希望を、抱いているのは――誰?
復讐者が希望を抱く事など有り得ない。
ではこの希望は誰のものか。
嗚呼、そうだ、“有り得ない”など、彼女の前では無力な言葉だった。
そんな言葉を蹴散らして彼女はこの未来を勝ち取ったのだ。
だからこれもきっと、有り得ておかしくない、少しイレギュラーなだけの話。
彼ですら未だこの小さな点にも満たない希望の光が、どういった末路を辿るのか想像もつかないのだ。
しかし“希望せよ”と言ったからには―…その先にあるのは“救い”でなくてはならないだろう。
彼にとって、彼女にとって、何が“救い”と成り得るのかは、未だ深淵の底にひっそりと沈んで形すら見えもしない段階。まだまだ終わらぬ狂宴の果てまで“待つ”しかない。
小さな部屋に、コーヒーの香りが充満している。
何の色気も無い無機質な紙と棚とデスクだけが並んだ部屋で、男女がこれから先の未来の話を少ししただけの事。
絶望の中でしか存在できない男と、希望を失わない事で存在を勝ち取った少女。
交わる筈の無かった――むしろ交わるのが必然であったかのような二人の運命は、確かに重なり合って未来へと同じ軌道を描き始めていた。
