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水温む、花の愁い

by. うなばら

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 数多の英霊のマスターとなってから藤丸立香にとって体を鍛える基礎訓練は戦闘で生き残り、人理を護る使命の為に欠かせないものとなっていた。
 だから今日も技術部が作ってくれた体操着と運動靴を身に纏い、日課のカルデア・マラソンで広大な施設内を走っている。
 はっはと息を切らせながら立香はいくつかの通路をすり抜けていった。
 時折、頑張れマスターと声を掛けてくれるサーヴァントに手を振ることで答えた。
 カルデアは標高6000メートルの山の中身を掘削して作られた施設だ。
 基本的に各階層は円形になっており、走り続けようと思えばひとつの階層を延々と走り続けられる。
 ただ似たような場所ばかりを走っていると飽きてしまうので、立香は適宜ルートを変更していた。
 作戦室や医務室を通り過ぎ、そのまま食堂の前を通り過ぎようとして――視界の端に黒い影を捉える。
 目に焼き付く闇色を見た立香はジョギングの足を止めて振り返った。
 食事時の終わった食堂はがらんとして、明かりも暖房も電力節減の為に最低限にしかつけられていない。
 体の暖まっている今なら心地良く感じられる室温ではあるが、通常なら少し肌寒く感じたことだろう。
 快適とは言い難い空間の数少ない灯りの下で見慣れた男が一人、長椅子に座って読み物をしていた。
 既に自分が近くにいることにこの男は気付いているだろうし、敢えて気配を消す理由もない。
 立香はすたすたと歩きながら男の隣に腰を下ろし、体ごとその掌中を覗き込んだ。
 真新しい紙の上に流麗な英文がつらつらと書かれている。
「アヴェンジャー。これ、シェイクスピアの新刊?」
 立香は何気なしに言いながら自分でもおかしな話だと思った。
 シェイクスピアの遺稿ならともかく新刊、新刊なのだ。
 今更だがこの素っ頓狂な事実に笑ってしまいそうになる。
 だけどこのカルデアにおいてはそれが極普通の事として受容されていた。
 数多くの文化系サーヴァントのおかげで娯楽の類は事欠かない。
 立香を含むカルデアスタッフからサーヴァントに至るまでその恩恵を享受していた。
 そして同じくその一人であるアヴェンジャーは立香の問い掛けを受けて書物から顔を上げる。
 十字の瞳孔が入った黄金色の瞳が立香を不敵に見据えた。間近で観察すると男性なのに睫毛が長いことが見て取れる。
「ああ、そうだ。先ほど出来上がったばかりのな」
「面白い?」
「思わず時間を忘れて読み耽るほどには」
 アヴェンジャーの言う通り、本のページは既に半分以上読み進められている。
 本の形と成ってからずっと読み耽っていたのだろう。
「へえ。じゃあ和訳版作ってもらお」
「原文をそのまま読めるようになるのも、他人の推量が入らずに済んで面白いと思うが?」
 本を片手で繰りながらアヴェンジャーが意地の悪い笑みを浮かべる。
 その表情を気に掛けることなく、立香は肩を竦めてみせた。
「世界の面倒事が全部終わったらその努力を検討するよ」
 果たして二重の意味でその機会は訪れるだろうか?
 そう思いながら、立香は肩を揺らした。アヴェンジャーもくつくつと喉を震わせている。
「マスターは走り込みか」
「うん、そう。ちょっとでも体力と脚力をつけたくて、前からずっとやってるんだ」
「ほう、どうしてまた?」
「皆のマスターになってからね、自分の実力不足を実感したの。それで英霊の皆に体の鍛え方とか、魔術の使い方とか色々聞いてみたんだ」
 ふと思い返してみても人理修復の旅は走ってばかりだった。
 目的地に向かう時も敵と戦う時も逃げる時も、数多の時空をひたすらに駆け抜けてきたような気がする。
 お陰様で今や立香の足はカルデアに来たばかりの頃と比べて少し立派になっていた。
「そしたら皆、時には体術も必要になるかもしれない。魔術礼装を着こなしてガンドや肉体強化の魔術を覚えることも大事だろう、だけど何よりもまず自前の体力を鍛えると良いって言うんだよね」
「ああ、道理だな」
「うん、私も今はそう思う。当時はあんまりよく分かってなかったけど」
 勿論、今は魔術の訓練も欠かしてはいない。
 付き合いの長いクー・フーリンを筆頭に、面倒見の良いキャスターに魔術の手ほどきを受けている。
 ガンドの命中率や破壊力はゆっくりとだが上達し、ほんの少しは魔術師らしくなってきた。
 それでも一番頼りになるのは体力作りを欠かさない自分の肉体なのだと立香は実感している。
「戦うにも逃げるにも、体力と脚力って重要なんだね。私の足が遅いせいで皆に迷惑掛けちゃったこともあったし」
 立香は運動神経が悪いということもないが、特別に良いということもなかった。
 クラスの中でも大体真ん中ぐらいで、足だって速くも遅くもない。
 でも今、日本の学校に帰って体力測定を受けたならきっと評価が1ぐらいは上がっているだろう。それくらいの確信はあった。
「皆の言う通り本当にこれが一番役に立ってるんだ。だから今でもなるべく時間がある時はランニングしてるの。結構体力ついたと思うよ」
「……だろうな、我がマスターが汗みずくで積み重ねていることだ。効果は今までの旅が証明しているだろうよ」
 ふふん、と自信ありげに胸を張る立香にアヴェンジャーは口角をほんの少し上げることで返事をした。
 言葉よりも表情が如実に肯定と称賛を表している。
 アヴェンジャーに認めてもらえることは誰に褒められるよりも嬉しかった。
 嬉しかったが、年頃の娘としては引っかかるワードがある。
 あせみずく、という単語を脳内で繰り返した立香は慌ててアヴェンジャーから体を離した。
 唐突にバッと飛び跳ねて距離を取ったかと思うと顔を真っ赤にしている。
 そんな立香の奇行を、アヴェンジャーは怪訝そうに尋ねた。
「どうした、マスター?」
「あっ、いや、その、汗、臭かったかなぁと思って!」
 思えばジョギングで既に小一時間ほどは走っていたのだ。
 身に纏う体操着は汗でしっとりと濡れて重たくなっていた。
 カルデアの技術の粋を込められて造られた体操着はそれはそれは優秀な作品であり、汗の吸収率は勿論のこと織り込まれた銀繊維による殺菌力と消臭力は確かの筈だ。
 とはいえ立香は少女であり、乙女であり、お年頃なのである。
 体操着の効力なんて過信できない。
 そして美麗な好男子を前にして自分が汗臭いと気が付いた状態で距離感を詰めたままでいられるほど無恥でもなかった。
 羞恥で顔を赤く染めた立香を見て、アヴェンジャーは口許を凶悪に歪めたかと思うと次の瞬間にはけたたましい嗤い声を上げる。
「クッハハハハハハ!今更そんな些末事を気にしたのかマスター?俺はおまえが血と汚泥に塗れた姿すら見たことあるというのに?」
「そ、それは戦闘によるものでしょ、それに血と汗は違う!」
「変わらんさマスター、毎日洗い立ての衣装に身を包んだ小綺麗な姿よりも、血みどろに穢れきった姿の方がおまえにはよく似合う」
「う、嬉しくない……」
 年頃の娘が言われて嬉しい言葉の筈がなかった。むしろ嫌がらせの領域に近い。
 自分はそんなに洒落っ気がなく修羅の姿ばかり見せただろうか?
 いや、そもそも出逢いが出逢いだったかと思い出すと更に気分が落ち込んでしまう。
 真剣にがくりと肩を落とす立香にアヴェンジャーは再び口角を上げる。
 口許から覗く尖った鬼歯を見て、立香はまたぞろ意地の悪いことを言われるのかと身構えた。
「まあ、それはともかくだ」
 アヴェンジャーはそう切り出すと立香の湿り気を帯びた髪を一房摘み上げた。
 黒手袋に包まれた指先に、そこから辿る黄金色に鼓動が妙に煩く聞こえた。
「アジア人は、体臭が薄い。匂いがしないのではないかと思う程に」
「それを最初に言って欲しい!」
 不意に髪に触れられたこと、からかわれた羞恥によって再び顔を赤く染めた立香はアヴェンジャーの肩を強く叩いた。
 手加減のないその痛みのどこが愉快なのか、アヴェンジャーはまたくくく、と喉を震わせる。
 立腹はしつつも立香も自爆を恐れてこれ以上は深くは掘り下げなかった。
 こうなったら不穏な話題はさっさと変えてしまうに限る。
「えっと、フランスの人ってお風呂になかなかは入れないから体臭を隠す為に香水を着けたんだっけ?」
「そういう時代もあった、そのあたりの詳しい話はあの愚鈍な王妃に聞くと良い。彼女はその道でもカリスマとされていた」
「確かに、マリーっていつも良い香りがするもんね」
 その可憐な微笑みを頭に思い浮かべるだけでふわりと甘い百合の花の香りを思い起こせる。
 それは決して、幻や錯覚などではなかった。
 彼女の在り方そのものが既に匂いと結びついて頭の中に強く焼き付いているからだ。
「香水って凄いなあ、大人っぽくて素敵。私には縁遠いものだけど、マリーやアヴェンジャーにとっては普段着みたいなものだった?」
「……そもそも香水という形に拘らずとも香料は古くから王族共の高級な実用品であり、嗜好品だ。マスターの国にも仏教伝来とともに伝えられている」
 絵巻物などで中世の貴族が組香をしている姿を見たことがないか、と問われて立香は湿った頭を掻いた。
 何故この男はフランス出身の癖に日本の歴史や文学にも詳しいんだろうかと思いながら遠い過去の記憶を思い起こす。
「うーん、教科書とかで見たことあるような、無いような……」
「マスターが覚えていないだけでマスターの祖国にとっても香料とは身近なものということだ……自国についてもっと勉強した方がいいのではないか?」
 お節介焼きな弓兵や教職に就いているらしいキャスターからならともかく、よもやアヴェンジャーからこんなことを言われる日が来るとは思ってもみなかった。
 真面目に反省しつつ、立香は頭を垂れた。
「反省してます……と、取り敢えず気にならないなら良かった」
「気にはならんさ。マスターが気になるのなら、香水を見繕ってやってもいいが……我がマスターには余計な付け足しは不要だろうな」
「ふうん?」
 何かの気遣いだろうかと立香は首を傾げるが、アヴェンジャーの言い回しは時に婉曲過ぎて意味が通じない。
 アヴェンジャーが気にならないと言うならそれでいいかと考えることにした。
 香りの話題に釣られるように、立香がすんすんと鼻を鳴らす。
 息を吸い込むと自分の体臭よりもアヴェンジャーの独特な煙の香りの方が目立った。
「アヴェンジャーははっきり言って、煙草臭いよね」
「……それこそ不愉快なら離れたらどうだ」
「うーん。それがさ、何でだろう。全然不愉快じゃないんだ、こうしてキミの存在を感じるとむしろ凄く落ち着くっていうか」
 安心する、と立香は微笑みながら正直な気持ちを打ち明けた。
「煙草だってうちの両親は吸わなかったし、私にとっては身近じゃない物だったのに不思議だよね。あの監獄塔でずっとこの香りと一緒に過ごしたからかな?」
 先ほど飛び跳ねたのは自分だろうに、今度は明け透けな様子で黒い外套に顔を寄せた。
 以前は煙草の匂いは好んで嗅ぎたいものとは思っていなかったはずだ。
 それなのに今はアヴェンジャーが漂わせる香りであれば不快を感じない。
 この香りが傍に有れば安心していいと、頭のどこかで思っているからだろうか?
 すんすんと鼻を鳴らして、子猫の様にじゃれついてくる立香にアヴェンジャーは歪な笑い声を上げた。
「ク、ハハ。全く、復讐者の存在を傍に感じて安堵するとは、流石世界を救ったマスターだ、頭の螺子が外れている」
「そう言ってもなあ、ほんとだよ。アヴェンジャーが来てくれてから寝付きも良い気がするんだ」
 今までは背負っているものの重さのせいでなかなか寝付けない不安な夜もあった。
 だけどアヴェンジャーを召喚してからここ最近はそういったこともなく、よく眠れているような気がしていた。
 目が覚めた後、疲労を覚える朝もあったがそれでも眠れない夜はぐっと減った。
 アヴェンジャーと雑談を交わした夜などは特に、その傾向が強い気がしたのだ。
 そして程よくハードな運動をした今も心地良い疲労とアヴェンジャーの香りのせいか、うとうとと瞼が重たくなってきている。
 思わず目の前の肩幅に体重を寄せると、アヴェンジャーがそっと手を回して立香の体を支えてくれた。
 より一層、煙草の香りに包まれる。より一層、心が落ち着いた。
「おい、マスター。このまま寝たら体が冷えるだろう、シャワーを浴びてこい。せめて着替えてから」
 監獄塔の頃から変わらない。アヴェンジャーは口が悪いがいつも何だかんだと立香を護り、世話を焼きながら導いてくれる。
 それは彼が立香に対して彼の慕うファリア神父たろうとしているからだと立香は知っていた。
 だけど自分はそれを心のどこかで不服だと感じているのだ。
 マスターとサーヴァントとして一心同体なのはいい。
 共にカルデアの皆と戦って罪を重ねた共犯者なのも良い。
 だけど導かれる者と導く者という関係性だけは受け容れたくなかった。
 それにしても瞼が、意識が重たい。アヴェンジャーの言葉も頭の中に上手く入ってこない。
「うん、うん……へやにもどったら……」
 甘い鼻声を出しながら舟を漕ぐ立香はそのまま意識を手放してしまった。
 肩に寄り掛かる重みがぐっと増す。
 立香が倒れないようしっかりと抱え直したアヴェンジャーはその顔を覗き込んだ。
 瞼はしっかりと閉じられて薄く開いた桜色の唇からは静かな寝息が聞こえる。
 狸寝入りなどでなく、唐突ではあるが完全に寝落ちている。
 これがかの盾の少女が言うカルデア名物、マスターの寝落ちかとアヴェンジャーは息を吐いた。
 とはいえマスターをこんな空調も適当な場所に放置は出来ない。
 このまま放っておいては体が冷えて体調を崩しかねなかった。
 支える腕はそのままに読みかけの本を懐に仕舞い、外套を取り外して小柄な少女の体を包む。
 軽い体を横抱きに抱き上げても少女は全く目を覚まさない。余程疲れているらしい。
 観念したアヴェンジャーは立香を抱きかかえたまま静かにマスターの部屋へと向かった。
 それにしても軽い、とアヴェンジャーは改めて立香の軽さに驚きを覚えた。
 こんな脆弱な矮躯が世界を救ったのかと思うと余りにも痛快過ぎて哄笑を上げてしまいそうになる。
 未だ乳の香りがしそうな少女が、こんなに華奢で頼りない存在が誰よりも強靭な存在であるなどと誰が想像出来ようかと胸の奥が煮え立つのを覚えた。
 だが今は睡魔に負けて寝こけてしまったただの少女なのである。
 立香の名誉を守る為に人から要らぬ詮索を受けぬよう、時には高速移動を駆使しながら人とすれ違うのを避けて部屋を目指す。
 しかし、部屋の出入り口を陣取る最後の門番だけはどうしても遭遇を避けられなかった。
 赤い制服に身を包んだバーサーカー……ナイチンゲールは赤い瞳をぎょろりとアヴェンジャーらに向けるとつかつかと足早に歩み寄ってくる。
「ミスター。ミスター、それはマスターと見受けられますが何かあったのですか」
「いいや、何もない。単純に運動後の疲労で寝こけているだけだ」
 アヴェンジャーの返答を受けても尚、自分で確かめなければ済まない性分らしい。
 もしくは自分から尋ねておいて人の話を聞いていないのか。
 ナイチンゲールは見開いた瞳のままアヴェンジャーの腕の中の立香の顔を覗き込んだ。
「……そのようですね」
 狂化のせいでその精神は狂っているはずだが、それでも立香に何事かがあったわけではないと分かると安堵めいた感情を浮かべる。
 少なくともアヴェンジャーには表情が微かに和らいだように見えた。
「ただ、このまま寝かせば体が冷える。看護はおまえに任せよう」
「はい。ミスター、前から進言したいと思っていたのですが」
 赤い瞳がじいっとアヴェンジャーの瞳を強く見据えてくる。
 背丈はアヴェンジャーと比べて大分低いはずなのに、威圧感だけでなら負けていない。
 彼女がこういった姿勢を見せるときは大抵強い抗議や提案を胸に秘めていた。
「何だ?」
「煙草は体に良く有りません」
「……俺達はサーヴァントだ。今更ニコチンの影響は受けん」
 食事も睡眠も嗜好品も、サーヴァントにとって本来は何ひとつ必要がない。それらを好むものが趣味で摂っているに過ぎなかった。
 その回答に対してナイチンゲールはふるふると首を横に振る。
「マスターにです。副流煙の悪性は現代においてはよく知られています、貴方個人が嗜むのは構いませんが、マスターの部屋で吸うのは好ましくありません」
「検討しておこう。ともかく、マスターを任せた」
 アヴェンジャーがほらと立香を差し出すと、ナイチンゲールは腕を伸ばしてしっかりとその体を受け取った。
 本来の彼女であれば同等の体格の少女を抱き上げることは難しいだろうに、狂化による肉体強化は難なくそれを可能にする。
 無事受け渡しを終えたナイチンゲールだが、立香の体を包むもの見て不思議そうに首を傾げた。
「はい……あの、これは?」
「俺の外套だが」
「それは分かっています、体が冷えないように包んでくださったのも。ですがマスターの部屋まで来た以上、もう不要と思われますが」
「だがマスターはこれの残り香を感じると落ち着いて、良く眠れるのだそうだ。先ほどそんなおかしなことを言いながら眠りへと落ちた」
「……そうですか。ですがそれはおかしな話ではないと思われます」
「何故だ?」
「貴方の在り方が何であろうとマスターは貴方に深い信頼感を寄せています。深い信頼感を覚える相手の残滓はやはり心落ち着くものでしょう。何らおかしくはありません」
 狂化したものは理性が薄れる。理性が薄れるから言葉に潜む欺瞞や不純物は自然と減り、己が見た真実だけを語るようになる。
 ナイチンゲールから見た真実を受けてアヴェンジャーは彼にしては珍しく、驚いて大きく目を丸めて見せた。
 その真実を受け止めきれない戸惑いや躊躇がまだ彼の中には存在していた。
 復讐者には似つかわしくない表情をしてしまったと思ったのか、帽子を目深に被りなおして苦笑を浮かべる。
「お前は本当に……苛烈な女だ」
「何がですか、意味が分かりません。看護か、もしくは処置が必要な案件ですか」
「要らん。それは枕元に置くなり、布団の上に掛けるなり好きに使えばいい」
「分かりました、ではお借りします。ですがマスターの部屋では原則、禁煙してください」
「マスターがそう命じたのなら、従おう」
 先ほどまで検討すると言っていたはずなのに突然手の平を翻したアヴェンジャーはにやりと口角を吊り上げた。
 ナイチンゲールが追及の声を上げようとすると、意地の悪い表情のまま闇に同化して消え失せる。
「ミスター。まったく、もう。話を聞かない人は困るわ」
 彼女の呟きをカルデアの誰かが聞いたなら誰もが貴女が言える話ではない、と思ったことだろう。
 氷が解けた春の兆しはまだ芽吹いたばかり。
 花の愁いは一心同体の絆であれば、お互いに秘めていた。