
薄い膜で覆われたような暗闇の中で呼吸をしている。
まるで海の底だな、と少年は青い双眸で辺りを見渡しながら、霞みがかった思考の片隅でちいさくつぶやいた。
ここが深海であったのならば、疾うに酸素は尽きて少年は溺死していたことだろう。体感として、ゆうに十分ほどは、飛んでいるのか沈んでいるのかはたまた浮いているのかわからない状態のまま、薄闇の中にいた。
幸いなことに手足は自由で、泳ぐようにして前に進むこともできる。進んだ先にあるのは、変わり映えのしない薄闇だけだったけども。
(夢なんだろうな)
とは、わかっていた。
これまでの経験上、こういった『不思議体験』に対しての耐性は十分で、ただただ薄闇の中に閉じ込められるという事態は、少年にとっては実に平穏で平和な夢だった。下手をすればどこかの誰かの夢の中に呼び込まれ、そこで戦わされたことだってあるのだ。比べてしまえば、なんの面白みもない。
少年はしばらくの間そうして、飛んでいるのか沈んでいるのかはたまた浮いているのかわからない状態でいた。目を閉じても開いてもずっと同じ景色。そろそろ飽きたから目覚ましでも鳴らないかなぁ……とか、「起きろー起きろー」と念じてみても、未だ閉じ込められていた。
その、闇の中で。
――――ひどく覚えのあるにおいが、した。
ぱちり。
そんな音が似合いそうなくらい、少年の双眸は見開かれ、視界いっぱいに光景が飛び込んできた。しかし覚醒したばかりの脳ではそれを処理しきれず、ただの映像として受け取るしかない。ぱちぱちと瞬きを幾度か繰り返し、深呼吸をすることで脳に酸素を送り込む。時間にしてきっかり一分。ようやっと映像が意味を持つものと成った。
「…………うわあ」
漏れ出た言葉に意味はない。あるわけがない。ただの感想だ。
横臥していたらしい体を起こすと、倦怠感がずっしりと両肩にのしかかる。心なしかずきずきと頭も痛んだ。
「大丈夫ですか? ミナト様」
「ひッ――――」
この際、思わず情けない声が出てしまったのは仕方がない。自分を擁護するように無理矢理言い聞かせ、そしてなかったことにするために愛想笑いを浮かべる。
少年――ミナトは、すぐ隣でミナトの様子を伺っていた少女をまじまじと見つめた。
薄茶色の髪は長く、鬱陶しくないように綺麗な三つ編みに結われている。ふくよかな体のラインは見間違うことなく女性のもので、身にまとう赤い服は彼女の第一印象をキツめにとらえさせるものであるが、浮かべられた頼りなさ気な表情がそれを和らげていた。
少女の
今は眉根を下げて心もとない表情を浮かべている彼女が、死にかけの病人相手に『殺してでも治療する』と狂気的で頼もしい発言をした挙句、迷いなく行動に移すことも。
だからこそ、ミナトの口からあれだけ情けない声が出てしまったのだ。
「だ、だいじょうぶ。ごめん、ちょっと寝てたみたいだ」
ミナトは曖昧に笑ってみせて、ベッド――と呼ぶにはあまりに質素にして簡素、おこがましさすらある石造りの寝台から足を下ろす。靴を履いていてもわかるほどに硬い地面。感触は本物そのもの。クン、と鼻を鳴らしてみると、じめじめとしたカビ臭いにおいが鼻腔にまとわりつく。空気も淀んでいて、蜘蛛の糸が絡んだような嫌悪感がある。
この場所を、識らないはずがなかった。
「ミナト様、顔色があまり……」
「――
「? 二夜ほどになります。アヴェンジャー様とは、私よりも一夜早くお会いしているとうかがっていますので、三夜でしょうか」
こてん、と小首をかしいだ少女は愛らしく、とても本来の姿とは似ても似つかない。しかし、記憶を失えば皆同じように成るのだろう、とも思えた。ミナトは記憶を失ったことはないが、何もわからない、誰を信じれば良いのかわからない、そんな状態を想像しただけで――とたんに心細く、足元から崩れていくような感覚が襲う。想像だけでそうなるのだから、実際に失ってしまえばそれ以上だ。
少女が言葉を発すると同時に、脳からフラッシュバックのように映像が届いた。
薄暗い監獄の中、暗闇に溶けそうなほど
「第四の裁き、かぁ……」
ため息を形にしたように言葉が漏れ出て、ミナトの肩に乗る倦怠感がいっそう力を増した。
――ここは監獄塔。フランス・マルセイユ沖に位置する、死の牢獄。
残念ながら、本物ではない。本物のイフの塔は既に閉鎖され、マルセイユの観光スポットの一つとなっている。中に入り――ましてや収監されるなど、まずあり得ない。
だからこれは夢。いいや、そう称するにはカタチが在りすぎる。
これは魂に刻み込まれた記憶で作られた、
「目覚めたか」
凛、とした声が、淀んだ空気を裂くように滑り込む。
ミナトが顔をあげると、そこには暗闇に溶けてしまいそうな格好をした男が立っていた。
目深く被った帽子の間から見える黄金の瞳。そこには一点の曇りもなく、ただただ、さしたる感情もなくミナトを見据えている。
(ああ)
おまえ、そんな
「おはよう、アヴェンジャー。もう時間か?」
「……随分と、物分かりがよくなったな。幾度の裁きを重ね、肉体と魂が離れたことで、性格に変化が起きたか?」
「俺はもともとこういう性格だったっての」
わざとらしく口を尖らせると、興味もないと言わんばかりの態度で一蹴されてしまった。男はそのまま外套の裾を翻し、颯爽と牢獄から出でる。そんな姿につれないなあと笑って、ミナトは立ち上がった。
彼の男の立ち振る舞いは清廉されており、どこぞの貴族のような圧がある。ミナトは棒立ちのような格好でその背中を数秒眺めてから、同じようにして牢獄から足を踏み出した。
かつかつと足音が監獄へと響く。合間を縫うように各所からはうめき声がきこえた。罵倒と怨嗟。怨念をカタチにしたような悲鳴。
男はその数多の声が聞こえているのかいないのか、これまでと一切変わらない表情で平然と牢獄の暗闇を見据えている。しかしよくよく観察すれば、その整った眉間には薄く皺がつくられていて、これっぽっちも楽しそうではない。嫌でも思い出すこの先の展開に、それもそうか、とミナトも納得してしまった。
そう、識ってしまっているのだ。
第四特異点・ロンドンでのグランド・オーダーを終え、無事に聖杯を回収したのちに、ミナトはかの魔術王の呪いによって、生死の境をさまよった。そのときに出会ったのが、今この瞬間、隣を歩く黒衣のサーヴァントだ。
地獄の牢獄から生還したミナトが、彼と再会したのは二〇十六年の終わり。世界を救う、最後の戦いの真っ只中。――彼はミナトの喚びかけに応じた。そして、本来ならばあるじである彼の王を裏切り、ミナトと共に死力を尽くして戦った。
……知っている。吐くほど苛烈な恐怖も、身動きできないほどの絶望も、支え合う力強さも、その先に待っているであろう――灯火のような希望も。きっと隣の男が識らないことまで、ミナトはぜんぶ、識っている。
どうしてこうなっているのか心当たりがないわけではないが、正確な答えなど
「今日はやけに大人しいじゃないか」
「俺が普段からやかましいみたいな言い方やめてくれません?」
「ハ、散々騒いできておいて、何を今更。なに、好きなだけ騒ぐといい。ここにはそれを咎めるものなど、もうどこにも居はしないからな」
「ワァ悪人みてぇなツラだぁ!」
けらけらけら。ミナトが揶揄るように言えば、彼の表情は訝しげに顰められる。
それもそうだろう。『ミナト』ならばそんなことを言う余裕はどこにもなかった。ただただ、目の前で起きる事象についていくことで精一杯だったのだから。
「
「……これからおまえの知るカタチをしたモノを殺すというのに、随分と暢気なマスターもいたものだな」
識ってる。
「それでも。たぶん、いい日なんだよ」
ぎぃ。
重々しくそして仰々しい扉を開いた先にいたのは、可憐な聖女。背筋をぴんと伸ばした、神様に愛されたひとりの女性。暗がりの部屋に電飾を灯したような、ぎらぎらと眩しい存在を視て、ミナトは嘆きのような声を口の中だけで漏らした。愛されて、愛されて、愛されて、裏切られてしまった、うつくしい人。聖女と呼ぶに相応しいヒト。けたけたと隣の男が嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、嗤う、わらう。どろどろとしたコールタールのような悪寒が背筋を這う。渦巻く怨嗟の大合唱。ずきずきと頭が痛む。それでも――――「ジャンヌを
ぱちり。
目を開けたことで、自身の意識が今まで閉じていたことに気づく。
半身を起こせば、やけに胃の中がすっきりしていて少しだけ驚いた。幸いなことに吐瀉物にまみれているわけでも、それがその辺に転がっていることもない。吐いた感覚だけがミナトの中に残っているだけだった。
「気分はどうですか、ミナト様」
「スッキリ爽快。いやあ、みっともないところをお見せしまして」
深々とミナトが少女に頭を下げると、少女はとんでもないと首を横に振った。
少女の気遣いに心を休ませながら、ちらりと牢獄の中を見渡してみたが、そこに彼の姿はなかった。きっと今頃、ミナトにはわからない感情を抱いてこの監獄塔の中を悠然と歩いているのだろう。
ミナトには想像もできないほどの苦労と苦痛、そして怒りと嘆きを彼は経験している。だから聖女一人殺すことを躊躇わない。……ミナトとて、あのときあの瞬間において、躊躇いはなかった。けれど終えたあとの事実が、重い。その重さは、何度繰り返したとしても背負いきれるものではないだろう。
……あのあと。――――聖女 ジャンヌ・ダルクを斃したあと、ミナトは嘔吐した。真っ白なシーツを泥だらけにしてしまったような罪悪感。そんな罪悪感に潰されないための、自己防衛反応。こんな状態でも嘔吐ができるんだな、などと、初めて斃したときには呑気に思ったものだ。
そんなミナトを、彼は嘲ることはしなかった。彼は人らしい行いを嘲ることは決してしない。人が人であるために必要な行為を、誰よりも知っている男なのだ。
(たぶん、そういうところ)
ざくざくとシャベルでタイムカプセルが意図せず掘り起こされていく。地中深くに埋めたはずだったのに、カン、と外装がシャベルの先端にあたって、もう目と鼻の先まで迫っていた。
「ミナト様、今日くらいは少しお休みになられてはいかがでしょうか」
「足を止めた瞬間、俺、あいつに殺されると思うなぁ」
「アヴェンジャー様も、ミナト様のその顔を見れば考えてくださるかもしれません……」
心配をカタチにしたらそんな表情なのかもしれない、というくらいに、少女の表情は曇っていた。言い澱むようにくちびるを震わせる少女から察するに、余程自分は酷い顔をしているのだろう。たしかに、目覚めてからというもの頭痛がひどい。立ち上がると、限界まで回されたコーヒーカップに乗り終えたような感覚が襲う。
すかさず少女が肩を支えてくれたおかげで、倒れこむような間抜けな事態は回避できたが、少女の表情は曇る一方だ。その献身的な姿は、本来の彼女の姿を彷彿させる。まるで何年も会えていないかのような懐かしさが胸に去来する。戻りたい。戻りたくない。時に思い出は残酷だ。
「ありがとう、メルセデス。けど、ここでは立ち止まれない」
自身に言い聞かせるように言葉を紡いで、するりと少女の手のひらから離れる。
支えを失っても、今度はきちんと一人で立つことができた。
少女が言葉を発するよりも先に、かつん、と足音が一つミナトたちの耳に届く。時を知らせるようなわかりやすい足音に、少女はそれ以上何も言えなくなってしまった。
「行くぞ」
言葉少なに彼が言う。暗闇に溶けてしまいそうな姿を見失わないように、細い糸を手繰り寄せるように、ミナトは彼を追う。
彼はするりと流れるような動作でミナトの隣を歩く。いつからだっただろう、と思い出の引き出しを漁ってみるが、当時は意識をしていなかったこともあって、明確な『いつ』までは出てこなかった。
初めの出会いはオガハワイム。第一印象は当然のようによろしくはない。そも、初めは敵だと思い、警戒心を隠しもしなかった。それが、地獄の牢獄で七日を共にするうちに解けていき、最後には――――
「殺せ。殺すだけでいい」
「――――え、」
突然耳に入ってきた言葉に、ぴたりとミナトの足が止まる。ヒュッと息を呑んで、重厚な扉の前に立つ彼を凝視してしまった。
彼は訝しむように眉根を寄せたが、言及はしなかった。
ギギギギギと扉が開かれる。開けた空間には暴食の具現が立っている。ああ、ああ、ああ、ああ。くちびるを噛みしめなければ叫び出しそうだった。叫び出して、いますぐこの悪夢から逃げ出してしまいたかった。こんなことならまだ暗闇を漂っていた方がマシだった。子供のように泣きわめけたらどれだけ楽だっただろう。それができない。それもできない。今のミナトにできることは、殺すことだけだった。
(暗転)
煙草に火を点けてくれ、と彼は言った。
その真意などわからない。けれど彼の言葉は残念ながらいつだって正しい。それを身を以て識ってしまっている。だから、手渡されたジッポで彼が銜えた煙草に火を点ける。震えそうになる。恐怖で? いいや、胸に在るのはあふれんばかりの――感動だ。
知らないだろう。泣きたくなるくらいに嬉しかったことを。
火の点いた煙草から、ゆらゆらと紫煙がたちのぼる。燻らす姿の、なんと様になることか。
たとえばここが外国のおしゃれなカフェだったのなら、女性客は黄色い吐息を漏らしながら、彼の一挙手一投足に目を奪われること間違いない。絵になるというのはまさにこのことだ。
恨むらくは、ここが外国でもなければおしゃれなカフェでもなく、黄色い吐息を漏らすような女性客も居はしない。
――死と、死と、死と、死と、死と、死と、死と、絶望が満ちた、最後の場所。
知らないだろう。やかましいほどに心が叫んでいたことを。
――――――知らなくていい。
そんなことよりも、爛と輝く黄金の双眸に映されることの方が、余程大切だった。
ぱちり。
ずきずきと痛む頭の所為かおかげか、目が覚める。
相も変わらず薄暗くじめじめしてカビ臭い牢獄の中では時刻などわかるはずもなく、いつ見ても変わり映えのしない天井を数秒睨み据えた。視界の端でちらりと映る黒衣に喉の奥で言葉が詰まる。呼びたかった名前が一つ、浮かんでは霧散する。
「アヴェンジャー、」
「余程第六の裁きがこたえたか」
思っていた以上に、ミナトが発した声は弱々しかった。聞き届けた彼は片眉をあげたが、目に見える気遣いはなく、ミナトを見下ろしながらそう告げる。
だいろくのさばき、と口の中で反芻してから、あの夜を思い出す。思い出しては、「いいや」と力強く首を振った。
「立ち止まれない。俺は、こんなとこで、足を止めてられない」
「たとえ見知った者を手にかけても、か?」
「ああ。聖人だろうが聖女だろうが、俺は殺してでもここを出る」
たとえどれだけ泣き叫びたくなろうとも、逃げ出したくなろうとも、ミナトにそれは出来ない。選択肢など最初から一つしか用意されていなかったのだ。
ミナトの答えがお気に召したのか、彼はまるで賞賛するかのように盛大に笑ってみせる。「それでこそオレのマスターだ」と皮肉じみた言葉であったが、そうではないことも知っている。その言葉がどれだけミナトの背中を押すのか、彼は知らない。
「アヴェンジャー、おまえに会う夢を視たよ」
「……おまえが視たそれは、夢などとぬるいものではないだろうよ」
「ああ。……ああ、そうだな。夢じゃない。夢じゃなかった」
あれは確かに在った出来事。そしてこれもまた、確かに経験した出来事なのだ。
それを識っている。識っているから、逃げ出すことも出来やしない。
半身を起そうとすると、事珍しく彼はミナトに手を差し出した。それを躊躇わず掴んで、重たい体を起こす。少しだけ縮まった距離から、かすかに覚えのあるにおいがした。うかがうように、帽子で隠された黄金の瞳を盗み見る。白い肌を着飾るような、
(幕間)
「おまえの耳に、あの声は聞こえているか」
問いかけではない。彼はたしかめるような口ぶりで、ミナトにそう告げる。
突然振られた話題であったが、彼が指す言葉の意味は、問わずともミナトにもわかってしまっている。
意識すれば耳の傍で大合唱されかねない、数多の声。言葉ではない。それは言葉にできるほどのカタチもなく、ただの声であり、音である。けれど、そのどれもがミナトに向けられ、そして呪詛をおびていることは、嫌でも感じ取っていた。
「聴かないよ」
本能が、聴いてはいけないと告げている。
聴いてしまえばどうなるのかはわからないが、帰りたい場所に帰れなくなる気はした。
だから、聴かない。たとえ何がっても、足を止められないように。
彼はミナトの言葉にクッと喉の奥で笑みをこぼすと、「それでいい」と肯定を紡ぐ。
ひどくやわらかな声だった。
うっかり涙腺が緩みそうになるくらい、心の隙間を埋める音だった。
周囲のあらゆる声など、それだけで気にならなくなる。
タイムカプセルは掘り起こされてしまった。
ばさり。
黒衣が翻り、男がミナトを阻むように立ちふさがる。
口元は弧を描くおうにつりあがり、さながら悪役のボスのようだ、などと、暢気なミナトは頭の片隅で微笑した。
「そんな事だろうと思ってはいたよ」
「察しがいいな」
彼は笑った。褒めるように、讃えるように、慈しむように、当然のように。
その声を、姿を、在り方を、忘れ得ぬようにミナトは眼球に焼き付ける。
震えそうになる脚を叱咤して、左手で右手の甲を覆う。朱い印はほのかに熱を持ち、血液の脈動をてのひらで感じ取る。乾いたくちびるを舌で濡らして、彼の言葉ひとつひとつを聴覚が拾い上げた。
いつから、というのは覚えていない。自覚をしたのは、長いようで短い七日を迎えた朝のこと。
それまでの悪夢が解けて、簡素な自室にぽつりと一人残されたとき。
知らないだろう。八日目の朝、シーツを被って泣いたことを。
今では遠いあの日に埋めた、大事な大事なタイムカプセル。
「おまえは知らないだろうけど、俺、おまえのこと、すげえ好きだからな」
ずきずきと頭が痛む。それでも目を離さない。
ミナトの言葉に、彼は一刹那目を丸くした。冷えた黄金瞳にようやく彩が宿る。ミナトのだいすきな、呆れて物も言えないと言わんばかりの、人らしい彼の彩。
「とんだ命乞いをする男だな、おまえは!」
「命乞いしたって見逃してくれないくせによく言う」
「く、ははははははは! 当然だ。この塔から出られるのはただ一人。ただ一人でなければならない!」
「知ってる。だから俺はおまえを
殺すことで彼が救われるからだとか、まだ世界を救えていないからだとか、そんな偽善じみたためではなく。
あの日、あの瞬間、ミナトが喚び、彼が応えたときのために。
そのためだけに、おまえを殺すのだ。
ざざあん、ざざあん。
青い空と、蒼い海が広がっていた。
白い雲はわたあめのようで、ちらほらと動物のようなかたちをした雲も見てとれる。あれはウサギ、あれはブタ、あっちは牛で、こっちはキツネ。指をさして言えば、隣の男は顔をしかめて暫し雲を眺めたあと、納得したように「なるほどな」と口にする。
ざざあん、ざざあん。
風に煽られ、波は幾度も砂浜を叩く。
波打ち際を歩けば当然のように足は濡れ、足の裏には砂つぶがいくつもひっついた。
青天霹靂、良い天気だった。辺りは静かで、二人以外誰もいない。
彼は普段の黒衣ではなく、海辺に相応しいラフな格好をしている。その似合わない姿に笑ったのは数十分前。今では見慣れてしまって、その恰好ですらも、格好いいのではないかと思えるほどだ。なるほど、これが噂に聞く惚れた弱みというやつか。
ざざあん、ざざあん。
砂地に足跡が二つ並んで、ひっそりと喜びを噛みしめる。
痛いくらいに優しい、■■だ。
・
・
・
「おはようございます、先輩」
飛んでいるのか沈んでいるのか浮いているのかわからなかった意識が、日常を告げる一言で一気に掬い上げられた。
最初に見えたのは真っ白な天井。ぱちぱちと何度か瞬きをして、そののち深呼吸を繰り返すと、その天井が見慣れた自室のものであると認識できる。
寝ぼけ眼のまま半身を起こすと、既にきっちり身支度を終えたかわいい後輩が、微笑のような苦笑を浮かべてベッドサイドに立っていた。『なんで』と口走りかけて、ヘッドボードのデジタル時計が目に入る。そうだった。そういえば、そうだった。
「起こしてくれてありがとう、マシュ」
「いいえ。マシュ・キリエライト、先輩のお役に立てるのであれば、毎日だって起こします!」
「それだと俺、ダメ人間コース入りするから、どうしてもダメそうな時だけお願いするよ」
あはは、とかんらからに笑い、かわいい後輩の気遣いに感謝を述べる。
「エミヤさんが、朝食を作って待ってますよ」と、花のような笑みを浮かべてかわいい後輩は踵を返す。後ろ姿は、どこか安堵をしているようにも見え、彼女もまた、この日少しだけ恐れていたのかもしれない、と思えた。
――――二○十七年、三月十六日。
一年前、ミナトは七日もの間、生死を彷徨った。有り体に言えば、死にかけていた。誰にも治療法がわからず、誰もがミナトを助けることはできなかった。ただ一人を除いては。
あれから一年。一年の間に、様々な出会いと別れを繰り返し、いくつもの狂気と、絶望と、正義を見届けてきた。死ぬ思いだって、一度や二度ではなかった。
しかし。――しかし。
あの監獄で起きたことほどの、苛烈な思い出はそうないだろう。
たった七日。長いようであっという間の七日。
彼を殺した感覚を忘れない。彼と築いた日々をなかったことにはしない。それらすべてがミナトの生きる道となり、糧となり、あの日、あの瞬間へと繋がったのだ。
一度だけ目を閉じて、宝箱よりも大事なタイムカプセルを再び埋める。ざくざくざくざく心の中で土を掘り、地中深くに置き去りにした。
「またな」
来年も再来年も、命尽きるときまでずっと、おまえを
天は自ら助ける者を助く
