
少年の目覚めは決まって男の腕の中だった。それは時折素肌であったり、寝間着を分け合っていたり、お互いがそれぞれの寝間着を着ていたりとその日様々ではあったが、凡そ彼の目覚めは男の香りと逞しい腕と体温に包まれている。
2人で寝るにはそう広くはないベッドで隙間を埋め合うように眠るので、寝返りは好きなように打てないし、寝苦しいのに違いないはずなのだが、いかんせんもう何年も独り寝というものをしていない少年には独り寝の快適さがもはや思い出せなかった。
「ん、んぁ……んん…いまなんじ…」
すっかり心地良い重しとなった男の腕の下で、少年はもぞもぞと子犬のように布団から顔を出し、時計を探した。
サファイアブルーの瞳がとろりとした眠気を引き摺ったまま、ふらふらと危うげにヘッドボードの真上へと視線が登り、音も立てず秒針が進む白亜の時計に辿り着く。
アールヌーヴォーを意識したデザインの時計は見るからに上等なもので、繊細ながらも確かな存在感を放つ長針と短針が物も言わず、今が午前7時であることを如実に示していた。
男はインテリアにこだわる質で、ベッドルームは落ち着いた色で纏められており、4面の壁のうち、ベッドのある側(つまり、今少年が見上げた壁のことだ)のみグレーの壁紙を使い、床はマホガニー色のフローリングにオーキッドミストの上質なラグを敷いている。
昨夜は男が照明を消してくれたのか、少年の最後の記憶では優しくも仄暗いオレンジ色の光を灯していた間接照明は今や役割を果たさず、ただのインテリアと化していた。
よく見ると、寝る前は少年側のチェストを兼ねたサイドテーブルの上に放置したはずのリモコンが男の方のチェストに移っている。どうやら考えた通りのようだ。
細やかな疑問を解決した少年は男の腕から抜け出して、上半身を起こすと固まった筋肉と関節を伸ばした。幼さが抜けたしなやかな若木のような肩や背中から小さく枝の折れるようなパキパキとした音が響く。
「7時…起きるか…」
隣で寝入る男を見下ろす。
起こすか起こさないかが問題であるが、幸い今日は土曜日だ。ゆっくり寝かせてやっても罰は当たるまい、そう勝手に決めて少年は男の寝顔をしげしげと眺める。男の寝顔もここ数年で随分見慣れ、時折こうして彼の寝顔を見つめては、感慨深さと優越感に浸るのが少年はお気に入りだった。
寝ている時も仏頂面を崩さない男には少し笑いが込み上げてくるが、反面、カーテンから差し込む朝日に男の白髪が反射して煌めく姿はさながら天使のような神々しさを感じる。
「天使みたいだ…………仏頂面だけど」
彫りの深い男の顔を優しく掌でなぞる。頬を撫で、額を撫で、指先で優しく瞼を撫でた。
朝陽に照らされて僅かに透き通るような男の瞼を細い睫毛が縁取っていた。男がむずがる様に顔を背け、眉根を寄せる様子を見ていると、まるで大きな虎に悪戯をしているような気分にさせられた。仏頂面の男が途端に可愛く見え、その後何度か頬と唇を撫でて彼が寝ていることを確認してから、静かに閉じられた瞼へ唇を落とした。誰も聞いていないのを良いことに、ほんの少しのリップ音を立てて。
それから男の乱れた髪を整えてやってから、漸く少年はベッドから降りた。
ラグの上に脱ぎ捨てられた衣服を拾い、身に付けながら欠伸を噛み殺し、今日の朝食はどうしようかと思案する。土曜の朝は少年が朝食を作る日だった。グレーのスウェットのままリビングを通り過ぎながらカーテンを開けて回って、中二階に上がり、クローゼットの前で数瞬悩んだ。黒のハイネックとパーカーを取り出したものの、思い直す。一度取り出したものを元に戻しながら、暖かくなり始めた気温に衣替えの季節を身近に感じた。
「もうすぐ春だなあ…」
部屋全体に燦々と降り注ぐ朝陽が、春の訪れを知らせるようにほんのりと淡い金色に色づいて見え、鳥の囀りに幼いものが混じっていることに少年はやっと気がついたのだった。
男が再び意識を浮上させたのは、リビングから漂ってくる珈琲の芳しい香りと仄かに漂うように聞こえてくるヴァイオリンの小鳥が跳ねるような軽やかな音色、そしてフライパンの焼ける音のせいであった。
「…ベートーヴェン…」
今日の少年の機嫌は余程良いようだということを察しながら、男が起き上がる。動きに合わせてベッドの骨組みがぎしり、と鳴った。
筋張った手で男は自らの顔を撫でた。わずかに残る少年が触れた感覚が残っているような気がして、口端が緩む。堪えるように髪を掻き上げてベッドから降り、男もまた少年と同じように脱ぎ捨てられた衣服を拾って身につけながらベッドルームの扉を開けた。
「あ、おはよう、エド」
リビングの奥に位置するキッチンでは、少年が黒いエプロンを付け朝食を作っているようだった。油が跳ねる音と腹が空くような匂いからしてベーコンを焼いているのだろう。
リビングに置かれた大きくどっしりとした重厚な造りをしたオーディオから流れるクラシックは、今しがた少年にはエドと呼ばれた男、エドモン・ダンテスが拘って購入したものだった。初めは気後れしていた少年も気がつけば男が使うよりもずっと多くこのオーディオを使うようになり、すっかり気に入ったようだった。
少年は音楽の趣味もここ数年で随分と変わった。変えたのは他でもないダンテス自身であり、今や少年の好む音楽は着実にこの男に侵食されつつあるが、彼がその事実に気づく日はおそらくもう少し大人になってからだろう。
「ああ」
男は答えながらキッチンに入る。
食器棚からマグカップをふたつ取り出し、シナモンとメープルシロップを用意し、ミルクを小さなポットに入れ温める。
休日の朝食は少年が用意し、珈琲は男が淹れる。これが2人のルールであり生活サイクルだ。
平日はその逆、時折時間が合わなければ顔を合わせないこともある。
「おい、身体は平気か?」
男はコーヒーメーカーからポットを取り出し、マグカップに注ぎながら何の気なしに少年に聞いた。
「聞くぐらいなら手加減しろよ。俺シナモン多めがいい」
少年は男の問いにぶっきらぼうに答えを投げ返して、何かを探すふりをしてそっぽを向いた。
「貴様も楽しんだくせにどの口が。……ブラックペッパーとケチャップはここだぞ」
皿の上には優しい色をしたスクランブルエッグとサラダ、クロックムッシュが盛り付けられており、これ以上することといえばスクランブルエッグにケチャップかブラックペッパーを追加するぐらいなものだ。
片手で少年の分のカフェオレをかき混ぜながら、トン、トン、とケチャップとブラックペッパーを皿の横に置いてやった。
少年は足元の引き出しをしゃがみ込んで覗いており、男からは少年の真っ赤になった首筋しか見えなかった。少年の下手な照れ隠しを一息に笑うと同時に、むくむくと悪戯心が湧きあ上がってくる。
常であればここで少年を達者な口で転がすのがダンテスという男だが、今日はやめておこうと気を取り直した。何しろこの1週間は各々が為すべきことに忙殺され、碌に顔も合わせられなかったのだ。少年は大学がテスト期間のため、空いた時間を予習と復習に割き、社会勉強のためのアルバイトにも行く。男は男で、取引先との大きな商談とパーティに接待と引っ切り無しに仕事が飛び込んできたために、ゆっくりと昼食を摂る間もない多忙さであった。
「照れ隠しならもっと上手くしたらどうだ。それでは心配でおちおち昼寝もできん」
ともかくここ1週間はそんな具合であったから、男が帰宅する頃には少年は家事を終え、課題も終えて泥のように眠っていたし、ダンテス自身も今思えば相当疲れていたようで、少年の寝顔を一頻り眺めてキスをしては、すとんと意識を水底に落っことしてしまう始末。朝は少年の方が遥かに早く起き、男が覚醒する頃にはリビングのテーブルの上に用意された朝食と彼からのささやかなラブレターが添えられているという日々だった。(無論、ダンテスが忙しい時は少年が食事を用意することもある)最初のうちは少年が残す書き置きすらも愛しいと思うこともあったが、それも3日も経てば欲求を高まらせる材料にしかなり得なかったのだから、つくづく男という生物の即物さに辟易する。
「う、うるさい……ていうか、なんか朝からテンション高いなお前」
漸く顔を見せた少年が男の卵にブラックペッパーを、そして自分の皿にケチャップをかけた。
「…今朝、天使を見たものでな。その天使は俺のことを天使のようだとか宣ってキスをして行った」
ぎくり、と少年の指先が跳ねる。
まさか起きていたのか、と背中に冷や汗が伝うが、男の言葉は夢の話とも受け取れ、ここで少年があからさまに態度に出して仕舞えばあとはなし崩しになることを学習しており、少年は男に背を向けた。
「へ、へえ」
「我らが父たる主はヨーロッパ生まれであり、フランスに生まれた俺としては信じないわけにもいかんだろう。ましてやキスまでもらってはな」
男の大きな手が少年の手からブラックペッパーの瓶を奪い、指先を絡めた。
「リツカ、」
男の掠れた声が少年の名を呼んだ。
絡め取られた指先は気がつけば掌にすり替えられ、お互いの手を握り合っていた。寝起きで少し暖かい男の掌がじんわりと少年の手を包み、彼もまたやんわりと握り返して寄り添う。
男の言わんとすることを察し、少年は背伸びをした。男もそれに合わせて自然と背を屈めた。実のところ、少年は己の身長が伸び悩んでいることにも多少の不安を感じていたが、一方として男が誰かに合わせて身を屈ませるなどという行為が為されるのが自分だけだと知っており、その優越感をどうにも捨てきることができず身長を伸ばすための努力を怠っているのが専らである。
男の大きな掌は少年の細い腰を抱え、腰のあたりで緩く結ばれたエプロンの紐を指先で弄びながら、薄目を開けて少年の震える睫毛を視界いっぱいに堪能する。男の心を十二分に満たす細やかな数秒間である。しかし、少年の吐息の震えがわかるほど近づいてきたあたりで惜しむように目を閉じる。
「……、」
両頬にひとつづつ。
不慣れなリップ音を立てて、男の精悍な輪郭に少年は己の唇を優しく当て、途端に他人のように離れていく。
「おい、朝の挨拶で済ませるつもりか?」
非難がましく言いながら、予想した場所とは違う箇所に口づけられ、男は思わず少年の腰をぐい、と引き寄せた。鼻の頭に優しく歯を立てて、ちゅ、と綺麗なリップ音をさせてキスをする。彼の慣れたような所作にどぎまぎしながらも少年は辛うじて声を絞り出して「天使なら与えろよ」と切り返した。
「クハ、確かに一理ある。…リツカ、」
少年がこれは本当にこの男の声なのかと疑いたくなるほど甘く蕩けた優しい声音で己の名を囁くのを、呼吸を堪えながら享受し、その間にも男の指先は少年の顎を捉える。そのまま流れるように自然な動作で顔を近づけ、凹凸を隙間なく埋めるように柔らかい口唇を食む。
「……っ、」
「……、」
舌は入れなかった。
ただただ子どもにするように唇を押し当て、恋人同士のように柔く口唇を食むだけのごくごく穏やかなキス。
「…さて、朝食だ」
名残惜しげに唇が離れ、そう呟いた男の吐息が顔にかかった。
「あ、うん…」
少年はどうしてもこの雰囲気には慣れることはできなかった。キスの合間や愛撫の合間に冷静になってしてしまい、彼の端正な顔が近づいてくるたび、生娘のようにパニックを起こしてしまうのだ。どうしようどうしようどうしようどうしよう、と爆音を全身に響かせながら早鐘を打つ心臓と混乱して嵐のように回る捻じれてひねくれてぐしゃぐしゃになった思考と格闘しているうちに男の手中に収まっているというわけだ。
「処女じゃあるまいに」
遅れてテーブルに着いた少年へ、男がニヤリと笑って小声で呟く。
「う、うるさいな…。そんなことよりエド、ところでそろそろ衣替えしなきゃだぞ」
2人で向かい合って手を合わせ、いただきます、と呟いた。食事の挨拶は少年の国の方式を取っていた。代わりに食生活は洋食が多い。少年も男も家事全般が苦手ではないとはいえ、和食中心の食生活とまではならず、難易度の高い和食より比較的簡単で時間のかからない洋食の方が二人のライフスタイルにも合致していたし、何より男が箸を使うのを避けたがるため、自然と洋食中心になっていった。とは言いつつも、時折少年が和食が食べたいなどと言い出した日にはお手上げで、精々百貨店でそこそこ値段の良い惣菜を買ってくることで良しとしている。
「ああ…、もうそんな季節か」
「早いよな、俺とエドが暮らし始めて…えーと…何年だ?」
「お前を引き取ったのが中学3年の冬だから、もう4年かそこらになるな」
「はあー…4年?なんか10年ぐらい一緒にいる気分だけど…」
そう言い捨て、立香は特製のクロックムッシュを切り分け、大きめの塊を口いっぱいに頬張った。とろりとしたチーズが白い皿に広がり、フォークへ纏わりつく。
「そして俺の伴侶になって今年で2年になるか」
頬張ったものを咀嚼している少年を涼やかな顔で眺めながら、男は茶化す。二人の右手の薬指には揃いのホワイトゴールドの指輪が嵌められていた。この指輪が無事二人の指に収まるまでには、それはもう山あり谷あり紆余曲折あったわけではあるが、結果的に少年の右手の薬指に、男の右手の薬指にそれぞれ指輪が嵌まり、今朝も当然のように少年の細い指に指輪が輝いているのを認めて、男が至極満悦そうな黄色いため息を吐いた。
「…まあ…それなりに…」
漸く咀嚼していたものを飲み込んだ少年が改めて指輪を見つめ、コーヒーに手を出した。男は彼のことをよくわかっており、彼のコーヒーにだけシナモンとメープルシロップを多めに入れ、熱すぎないよう程よく冷ましてから温めたミルクを加えて作ってある。
男は少年が恥ずかしがらずに肯定したことに少しばかりの驚きを覚えながら、手元でクロックムッシュを切り分けて口に入れた。トーストされた香ばしいパンとチーズの芳醇な味、そしてアクセントのように薄く入れられたベーコンの塩気が空腹感をより刺激した。
「今朝はチーズを変えたのか」
コーヒーと一緒に飲み込み、わずかに覚えた違和感に男が問う。
彼自身もチーズ職人というわけではないので明確に説明できるわけではないが、ただ漠然といつものチーズと違う、と感じただけである。
「うん、昨日はベディと同じ講義を受けたんだけど、マリーにもらったからお裾分けだって」
「さすがはマリー嬢だな、良いチーズだ」
「美味しいよな、このチーズ。俺好きだ」
きっと高いだろうから大切に使おう、と少年は言うのに続き、男が口を開く。
「彼女に購入した場所を聞けばいい、今日にでも買いに行くか」
「え、いいの?」
すっかり空になった皿を眺めながら、コーヒーを啜ってい少年が驚いたように男を見た。
「別に金に困っているわけではないだろう」
「そりゃ…まあ…でも金なんてあって困るものでもないだろ」
「無論、お前が倹約したいというのであれば、伴侶である俺も付き合うが」
問われ、数瞬悩む。
チーズは二人の食卓の中で頻繁に登場する食料品だ。味も値段もピンキリで、一度良いものを食べてしまえば、元のものに戻すのに一苦労しそうである。
半面、先ほどの男の嬉しそうなわずかな微笑みが網膜に焼き付いたかのように離れず。
「……買いに行く、お前も好きみたいだし」
「良いだろう。では、衣替えをして、ショッピングリストを作ったら出掛けるか」
「ついでに洗剤とトイレットペーパー買いに薬局寄って…、あーなんか今日は結構バタつきそうだなあ」
綺麗に完食された皿を男が重ね、少年が飲み干したマグカップも受け取る。彼が食事を作った日は洗い物をするのは男の役目だった。
「まあ、こんな休日も悪くない」
「……そうだね」
今日も明日も、一緒に生きよう。
マタン・エテルネル
