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mon cœurに子守唄を

by. 雪国

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 一.


 夢を見ている。そう理解できたのは、藤丸が身につけているのはカルデアの職員服ではなく、学校の制服だったからだ。
 今や懐かしさを覚える学ランは、クリーニングから戻ってきた時の、ミントの香りがした。
 では、ここがどこなのか。その答えもすぐに辿り着く。
 教室だ。
 三階建ての校舎の真ん中。二階の突き当り。窓は東向きにあるので、夏は暑く、冬は寒い。それも、一年生の間しか使わなかった旧校舎だ。
 黒板には、いくつもの数式が書かれていて、周囲の机には、見覚えのある教科書、ノートが開かれ、文房具も静かに置かれている。ただ、持ち主が着席していない。生徒も、教師も。誰一人、姿がない。
 時計は長針も短針も秒針もぴたりと、十二の数字の上で停止している。
 時間が、止まっている。文字通り。けれど、藤丸の心臓は動いている。この空間に、独りだけ存在している。
 どくん、と。心臓が嫌な音を立てた。ぞわりと、背中に悪寒が走る。
 教科書に手を伸ばす。この裏に、名前が記入しているはずだ。
 記憶通りならば「藤丸」とだけ、サインペンで記されているはずだ。
 目を閉じて、深呼吸。よし、と心の中で呟いて、目を開ける。
 名前は――「藤丸立香」。
「うそだろ」
 はっと、喉の奥が震えた。
 一瞬にして、視界が真っ白になった。いや、天井だ。カルデアにおいての、自室。
 照明がついているのは、自分よりも早く起きる人間と同居しているから。
 鈍い頭を手で抑えながら、上体を起こそうと重心を右に傾ける。
「顔色が悪い」
 肩が、びくりと強張ったのは、思っていた声音より数段低く、何より近かったからだ。
「お、おはよう……巌窟王……」
 呼びかけるのに、一分のタイムラグが必要だったのも、寝起きだったからだ。言い訳を心のなかで唱えるのは、我ながら女々しく苛立たしい。立香なら、笑顔で抱きつくところなのに。
「まだ夢の中か?」
 淡々とした調子で話かける巌窟王のおかげで、だんだんと心臓が落ち着き、思考も回るようになってきた。
 夢。そう夢を見た。
 思い出したくないのに、教室の光景が鮮明に蘇る。
 誰もいない。立香もいない、ひとりぼっちの夢なんて。あまりにも、悲しく、虚しい。けれど、目尻は乾いている。頬を濡らす行為は、ここ二年の間、経験していない。涙を流すのは、小さい頃は何度もしていたのに。我慢と諦めを覚えてからは、激減した。同年代とこんな話はしないが、みんな似たようなものだろう。購買で欲しいものが目の前で売り切れて大泣きする生徒は、いなかったのだから。
 だというのに、何故、藤丸ではなく、目前の男が、泣いているのだろう。彫りが深い目元に雫が、ひとつ、ふたつと溜まって、またひとつの雫となって、頬へと流れていく。彼も、涙を流す機能を有しているのだと、今更ながら思い知らされる。
「これは、涙か?」
 確かめるように呟き、指先で雫を拭いとると、紅玉の双眸が、藤丸を捕らえた。
「……っ」
 二の句を告げられず、ただ、彼の紅玉からじわり、じわりと生まれる透明な雫から目が離せない。
 その時。
 耳をつんざく警報が、鳴り響く。
 それと同時にドクターの声が通信越しに聞こえる。
『藤丸くん、朝早く悪いけど、管制室に来てくれ! 緊急事態だ!』
 それに返事をしたのは、巌窟王だった。
「分かった」
『が、巌窟王っ? え、えーと、うん、なるべく早く来てくれ!』
 ドクターからの通信が切れると、藤丸の頭上にカルデアの制服が降ってきた。
「早く着替えろ。話は、それからだ」
「……涙」
「止まった」
 巌窟王は、愉快げに目を細め、指を慣らすと、ワイシャツと黒のスラックスというラフな出で立ちから、またたく間に黒炎の如き外套を身にまとう。
「さぁ、マスター」
 巌窟王が涙を流した原因よりも、緊急事態が優先事項だ。
 脳裏にちらつく復讐鬼の涙も、悪夢も、頭から振り払って、藤丸は白い制服に袖を通した。


 二.


 霧の都という響きには、浪漫がある。
 石畳には、緊張の糸をぴんと張り詰める威圧がある。
 厚い灰色の雲に覆われた大都市には、事件の香りがする。
 これは予感ではなく、数時間前に管制室で聞かされた説明を受けての印象だ。そうでなくとも、特異点修復のために一度この地に訪れている。
 本音を打ち明ければ、好奇心が赴くままにガイドマップを手に歓声をあげながら走りたい。なにせ、ここは、ミステリー小説の本場であり、オカルト文化が成熟された英国の首都、ロンドン。
「こら」
 ぺちんと、音だけを手で鳴らし、意識を現実に戻したのは、赤毛の少女だった。くりっとした愛嬌のある猫目は細められ、拗ねている。
「これから、ドクターと作戦会議なのに、ぼーっとしてた」
「ごめん」
 嘘をついても、誤魔化しても、彼女からの追求は容赦がないので正直に謝る道しかない。
「も~、藤丸のばーか」
 右頬を抓られたが、そんなに痛くない。頬に指先を押し当てただけの軽い罰は、彼女の献身の表れだ。
『ははっ! 相変わらずだね、立香ちゃん、藤丸くん』
「相変わらずって、レイシフトしてから数時間も経ってないよドクター」
 腰に手を当てて、大仰に溜め息をつく少女はどことなく弓兵のエミヤに似ている。
「えーと、すみません。ドクター・ロマン、作戦会議を再開しましょう」
『うん』
 ロマ二・アーキマンは咳払いをすると、背筋を正し表情を切り替えた。
『今回、ロンドンの地で確認された歪みは、修復後の揺り戻しによって発生したもの。僕を含め、スタッフたちは自然消滅すると考えていた』
「ところが、歪みは特異点に変化し、この時代、この国では決して存在しえないものを生み出した……否、この場合、異空間と称したほうが的確だろうな」
 投げやりな口調で説明をし出したのは、さきほどカルデアから召喚したサーヴァント・キャスター「アンデルセン」。
『わあ、僕の仕事奪わないでほしいな!』
「そう思うのなら、さっさと作戦を提示しろ。そして、速やかに終わらせ、瞬く間に帰らせてくれ」
 傍若無人に暴言を振りまいている理由は、締切を三日前に控えているからだ。心身ともに磨り減らしながら物語を生みだす作家は、それでも重い腰を上げてくれた。
「神経が過敏になっているのは寝不足が原因だ。コーヒーではなく、ハーブティーを所望するべきだったな」
 すぐ後ろから聞こえた愉快げな笑い声。振り返る前に、アンデルセンが不機嫌に眉根を寄せ、隣に佇んでいた立香が表情を綻ばせる。
「エドモン!」
「おお、ここにも煩い小僧がいたか」と、アンデルセンは忌々しそうに鼻を鳴らした。
 やはり、立香の反応こそ、アヴェンジャーに対するものではないと、つくづく思う。否、気になるところはそれだけではない。
「巌窟王。キミ、今までどこにいた?」
「お前の影、だ」
 こつこつと、月夜に照らされた靴の爪先で、藤丸の足元から伸びる影を叩いた。
 よく見れば、彼の黒衣が揺らめき、まるで紡ぎ糸のように、藤丸の影とつながっていて、水面のように揺らめく。そこだけ、世界がまるで違っていて、巌窟王が規格外だと言われる所以なのかもしれないと実感しつつ、ドクターの方に視線を戻す。胸の奥から湧き上がる熱を、無理やり下げるために。
「話が逸れてごめん、ドクター・ロマン。それで、詳しいことはわかってるんだっけ?」
『そっちからも見えるはずだよ。塔が』
 塔が、見える。藤丸と立香が、同時に呟いた。ふたりは顔を見合わせると、ドクターが右腕を掲げ、人差し指を後ろへと指し示す。その先をたどるように振り返る。
天を突き抜かんとばかりにそびえ立っている白亜の塔。
 ざわりと胸騒ぎを覚え、隣の立香を窺う。
「立香……」
 彼女は唇の端を引きつらせ、巌窟王の外套を掴んだ。
「監獄?」
「似てはいるな」相槌を打つ彼の横顔は、帽子の鍔でよく分からない。
 ただ、愉快そうに、不愉快そうに、唇を歪めている。僅かに覗く赤目を灼きながら、笑うさまは面白がっているように見えた。
「さあ、どうする?」
 問われた藤丸と立香は顔を見合わせてから、ドクターを振り返る。
「中はどうなってるのか、わかるの?」塔を一瞥した立香は、怪訝に尋ねた。
『……落ち着いて、聞いてほしい。塔の中に、生体反応があった』
 藤丸は、立香の手を掴んだ。と、同時に立香は塔の方へ走りだそうとした。
 ごつんっ。
 立香は後ろを引っ張られ、藤丸は走り出した少女の勢いを止めきれず。結果、少女の後頭部と少年の額が強く接触し、ふたりは崩れ落ちる。
『ナイス藤丸くん!』
「藤丸!」
 喜色に染まった歓声を覆いかぶさるように、立香は藤丸を睨みあげる。
「動くのは、話を最後まで聞いてからにしよう」と、努めて穏やかに語りかけながら、手を差し出す。
「閉じ込められている人がいるかもしれないのに?」
 口早に紡がれる問いは、独白に近い。
「……落ち着いて、立香」
「ひとりぼっちかもしれないのに?」
 少女の右手は、未だ漆黒の外套を握りしめている。きっと、その手を離したら、塔へ走って行くと自分でも理解しているのだろう。自制は働いている。彼女は、ちゃんと落ち着こうとしている。
 藤丸を睨むその琥珀にも、理性の光が宿っている。
「ドクター・ロマン。他にわかっていることは?」
 通信状態のドクターを振り返って、問いかければ、物言いたげな様子で、眉間に皺を寄せた彼と目が合う。
『塔が出現して以降、周辺にゴーストタイプの敵性が多数確認されている。発生源は、もちろん塔。外部への干渉が強まってきている今、早急に対処する必要がある』
「了解しました。今回の任務は、塔の排除、ですね」
 しばらく聞き役に徹していた薄紫の少女が、口を開いた。
『その通りだ。……以前のオガワハイムと類似している点がある。くれぐれも気をつけて』
 大きく頷けば、あからさまに安堵した笑顔を浮かべる。その頬を、つんつんと突く指先が映り込んだ。
『や、やめろよ、レオナルド!』
『ふふーん、情けない顔をするロマニが悪い。からかうネタを、花咲かじいさんのように振りまくんだから。ねぇ、立香ちゃん。藤丸くん』
 けらけらと少年のように笑うモナリザというのは、衝撃が強い。
『そうそう、塔に侵入する前に、渡しておいたアイテムをちゃんと装備しておくんだぞ~。ダ・ヴィンチちゃんとの約束だ』
 星を幻視してしまうウインクを送られ、とうとう強張っていた表情から、力が抜ける。藤丸も立香も、完全に緊張を解かれ、唇に苦笑を称えた。
「塔に入る前に、また連絡を入れるから」
『ああ、そうしてくれたまえ! じゃあね!』
 元気溌剌な返事を挨拶に、通信は切れた。
「渡されたアイテムって、なんですか?」
 マシュが興味津々な顔になっている。スンスンと鼻を突き出すようにして近づく様は、好奇心が旺盛な仔猫のようだ。
「ペアリングだよ。同じ指輪を装備していると、互いに認識できるんだって。ほら、五つもらったんだ。シルバーとゴールド。マシュ、どれがいい?」
 立香は目を輝かせている。彼女は新しもの好きで、ダ・ヴィンチちゃんの開発協力に余力を惜しまない。
 さて、選択権を委ねられたマシュは、藤丸、巌窟王と男性陣の顔色を順々に窺う。
「わ、私が、選んでもいいのでしょうか……?」
「いいよ」
「で、でも……」
「ふむ。まるで、エンゲージリングだな」
 アンデルセンは、にやりと人の悪い笑みを浮かべると、立香の掌から、シルバーリングを小さな指先でつまんだ。
「先生?」
 怪訝な立香に向けて、アンデルセンは綺麗な笑顔を見せると、つまんだ指輪を藤丸の薬指にはめ込んだ。
「ほぉ、サイズぴったりだな」
「アンデルセンさん?」
 アンデルセンの唐突な行為に、藤丸は目を見開き口を開ける。そんな間の抜けた顔をするマスターを綺麗に無視して、アンデルセンは、残った指輪を、巌窟王に投げ渡す。
 難なく空中で受け取った巌窟王は、無表情に青い髪の作家を見返す。
「つけてもらえ」
 誰に、とは言わず、その姿を霊体にして姿を消した。
 巌窟王は深く溜め息を零し、掌に存在する指輪へと視線を移した。
 その隙に、藤丸は立香を見やる。
「えへへ~」
 大層、ご満悦な顔でマシュの小指に、ゴールドの指輪を嵌めていた。
「これで、おそろだよ。マシュ」
 アンデルセンに意識を向けている間に、立香は立香で、ちゃっかりとマシュのお揃いを手に入れていた。
「う、うれしいです……」
「でしょー? あとね、この五つの指輪。色が違うだけで、デザイン一緒なんだよ」
 なるほど。つまり、立香の笑顔は、お揃いがマシュだけではなく、藤丸も、巌窟王も含まれているから、スキップしそうなほど上機嫌になっているのだ。
「アンデルセン、つけたくなくて逃げたんだな?」
 霊体化していても、その場にいるのは契約関係上、把握している。
「だろうな」
 しかし、作家は沈黙し、答えたのはシルバーの指輪を弄ぶ巌窟王だった。
「……つけようか?」と、聞いたのは藤丸だ。アンデルセンが拒否したのだから、自然とそうなる。
「薬指に?」
嬉々として提案する立香に、藤丸は首をかしげる。
「紐あるから、そこ通して身につければいいだろ。オレも、そうするし」
「えー! せっかくなんだから、指につけようよ」
「やだよ。気になって、戦闘どころじゃなくなるっ」
 子供の言い合いに、マシュはうろたえ、隣にいる巌窟王を見上げる。
「こうなると、長くなってしまうので……あの、ミスター……」
「ああ、承知した」
 親猫が子を運ぶように、巌窟王は立香の腰に腕を回し軽々と抱え上げ、藤丸にはシルバーの指輪を突きつける。
「え、えぇ……」
「肌身離さず、身に付けろ。指輪とは、そういうものだ」
「……わかったよ」
 渋々と頷いた藤丸は、巌窟王から指輪を受け取った。
「薬指?」
 抱えられている立香が、ニヤニヤと軽口を叩く。
「わーかーりーまーしーたー」
 乱暴に巌窟王の左手首を掴み、手袋を外そうと袖口に指を差し込む。
「あ、待って、待って。写メる!」
「お断りだ!」
 勢い良く手袋を外し、露わになる骨ばった左手。うっすらと傷跡が残っていることに痛そうだと息を飲み込み、そっと薬指に指輪をはめた。
 止めていた息を、緩やかに吐き出し、視線だけを上げる。
 ぽつん。透明な雫が、令呪の上に落ちた。
「え?」
 巌窟王の紅玉が、驚きに見開かれていた。
「マスター……」
 彼にしては珍しく、呆然とした響きでもって、呼びかけられる。
「な、なに?」
 立香も、マシュも、巌窟王の涙を凝視している。恐らく霊体化しているアンデルセンも。
 泣くという感情から、一番程遠いサーヴァントが、ぽろぽろと涙をこぼしている。
「これは、お前の涙だ」
 男は、久しく泣いていない少年に向かって、淡々とした調子で言った。それは、まるで「今日は雨です」と事実を述べているようにしか聞こえなかった。
 巌窟王は、嘘をつかない。
 だから、それが問題だった。
「藤丸の涙って、どういうこと?」
 二の句が告げられない藤丸の代わりに、立香が尋ねる。
「簡単なことだ。藤丸の感情が、俺に流れ込んでいる」
「パスが原因……では、ないですよね」と、マシュ。
「契約をしている以上、ないとは言い切れない。……しばらく、様子を見るしかないだろう」
 巌窟王は顎に手を添えたまま、マシュと立香を交互に見やる。
 涙を流しながら、いつも通りでいるその様子は、不気味なものがある。何より彼の涙腺から溢れているそれは、己の感情が発端となっているのだ。直視できるはずもない。
 藤丸は聞き耳を立てながら、塔のほうへ視線を移し、話が終わるまで待つことにした。
 ふと、指輪を薬指にはめた時、自分は何を思ったのかと、記憶をリプレイさせる。
 早く終わらせようと手袋を外した。
 骨ばった長い指先、自分の手首をひとまとめに掴めてしまうほど大きく広い掌。そこに刻まれた拷問の跡。
 痛そうだと思った。けれど、それが、涙を流す理由と成り得るのだろうか。
 直感が、違うと答えている。
 ならば、なんだろう。つらつらと思考を巡らせながら、藤丸は左手の薬指にはめられた指輪をそっと抜き取り、ポケットに仕舞った。
 答えの出ない考え事は脇に置いて、今は塔について考えよう。そう思った時だ。
 頭が、ぐわんと揺れ、視界も曖昧に霞み、白んでいく。
「え?」
 地に、足がついていない。一瞬の浮遊感。
 視線を巡らせれば、ロンドン都市の上空に、藤丸はいた。
「はあああああっ?」
 レイシフトする度に、落下している。そういう星の下に生まれてしまったのだろう。慣れとは怖いが、不満を覚えないわけではない。
「マスターっ!」
「アンデルセンっ」
 青い色が、視界の端を掠める。小さな掌が、制服の留め具の紐を掴んだ。
 ぎゅっと首元が締まり、喉の奥が鳴った。
「起きろ!」
「は?」
「これは夢だ!」
 肩から一気に重力が落ちてくる。膝から崩れ、抵抗する暇もなく固い床に叩きつけられる。
「ぐっ!」
 体全身に伝播する衝撃に、顔が歪んだ。
「起きたな?」
「お、起きたっていうか、え、な、なに? へ?」
 今まで出来事は、夢なのか。
「混乱しているな。だが、順を追って説明している暇はないぞ。それと、話す時は、囁くように」
 唇に人差し指を添える様は、黙っていれば美少年然としていて、5割くらい損してるよねと笑った立香のことを思い出した。
 そうだ、立香だ。
「アンデルセン、立香は? マシュは? 巌窟王は?」
 アンデルセンの言葉通り、囁くように話しかければ、ついっと人差し指が、藤丸の鼻先から右へと指し示した。
 視線を移せば、鈍色に薄汚れたレンガで出来た壁が、重厚さを醸し出していた。
「……壁? 建物の、中?」
「そうだな。その質問には、答えてやれる」
 アンデルセンは、藤丸のネクタイを掴んだまま言った。
「ここは、塔の中。マスター、お前はまんまと敵の手中に閉じ込められた。いわば、グリムのラプンツェルのように、な」
「隙だらけで悪かったなっ」
「そう拗ねるな。ラプンツェルとなったのは、何もお前だけではない」
「マシュと立香!」
「うーん、その素早い思考回路は、まさしく猟犬のそれだな」
「アンデルセン先生、オレをおちょくってる暇もないんじゃないの?」
「そう焦るな。立香に落ち着けと言った冷静さは、どこへ置いてきた?」
「マシュと立香の所在については、答えられない?」
「そうだな」
「つまり、分断されたのか」
 忌々しげに舌打ちすれば、アンデルセンの薄い唇が、人の悪い笑みを乗せる。
 何かが、可笑しい。目の前の少年はアンデルセンでああるはずなのに、違和感がある。
 それは気のせいではないと、ポケットの中にあるものが、助言をくれている。
「アンデルセン」
「どうした?」
「……」
 無言で睨みつければ、にやりとした笑いはさらに深くなる。
 この笑い方は、どう見ても無愛想な作家がするものではない。
「その姿は、らしくないんじゃないか、巌窟王」
「く、はははははははははっ! それでこそ、オレのマスターだ!」
 楽しげに哄笑すると青い作家は、手に持っていた本がぼっと音を立てて激しく燃え始めた。大きなる黒炎は、少年の体を包み込む。
 魂を炙るほどの熱量は、容赦なく藤丸の肌を焦がした。
 針で刺されるような痛みをぐっとこらえる。
「しかし、マスター。ここは、塔の中であるが、厳密に言えば違う」
 目前には見慣れた黒衣のサーヴァントが、顔を覗き込んでいた。
「どういうこと」
「今のお前は、魂だ」
「……え、でも、巌窟王、ちゃんといるじゃん」
 腕を伸ばして、ぺたり、と岩窟王の胸板を服越しに触る。実体はここにある。
「まだ寝ぼけてるのか?」
 呆れたように言われて、藤丸は素直に考え直す。
 五感は機能していても、現実ではない「空間」に閉じ込められた経験は……確かに、あった。
「監獄塔……いや、でも、似てるけど別物みたいなこと言ってなかった?」
「お前たちの傍にいた「俺」は、別物とは言わなかっただろう?」
「ああいえば、こういう……ん?」
 目前の巌窟王は、妙な物言いをする。いや、いつも意味深に語りかけることは多いのだが、今のは、胸に引っかかる。
「巌窟王、だよな?」
「ああ。お前がよく知っている「俺」でもあるが、この空間においては、そうでもないと言える」
「……難しい。八割「俺」で二割ちがうってことか?」
「……それでいい」
 生温い苦笑を唇に浮かべて、巌窟王は頷いた。
 まるで、出来の悪い教え子に対する態度のようで、非常に心が傷ついた。
「むぅ、日本語なのに理解できない……」
 だが、心を煤けたままではいられない。
 大切な後輩と半身の安否がわからない今、一刻も早く、肉体に戻らなければいけない。
 現状を振り返ると、塔に閉じ込められているのは確定している。傍らには、巌窟王。この図式から導き出される答えは、ずばり。
「どう考えても、監獄塔リベンジじゃん」
「ふむ、オレを倒してみるか?」
 狐のように目を細める巌窟王は、藤丸の発言を冗談とわかったうえで、真に受けようとしている。
 ふつり、と。腹の奥底が、煮えた。
「絶対に、イヤだ」
 心電図があれば、一際強く心臓が脈を打ったのが分かったかもしれない。それくらい、藤丸も自覚するほど、巌窟王の言葉に強く揺さぶられた。
 ただの冗談だと、理解しているはずなのに、どうして、怯えているのだろう。
「それより、藤丸」
「ん?」
「指輪は、肌身離さずつけておけと言ったはずだが?」
「あ……」
 巌窟王の、手袋に包まれた指が、そっと腰を撫で、ポケットの中を探る。やわく触れられ、くすぐったい。
「っ、だから、指につけてると違和感あるからさ……」
「無くすことが、恐ろしいか?」
 そう言って、巌窟王は藤丸の左手の薬指に、銀の輪を嵌めた。
 時が、止まる。
 脳裏に蘇るのは、あの夢。
 無人の教室。
 巌窟王の燃える瞳から、一粒、銀の雫が滴った。指先で、頬を伝う涙を拭って、彼は藤丸の瞳を覗き込む。
「……それとも、守れないことが恐ろしいか?」
 感情が入り込んでいるのだろう。だから、藤丸が何に怯えているのか、筒抜けなのだ。
 朝、見た夢も、きっと彼は知っている。
 あの夢こそ、藤丸の恐怖が形になったもの。
 自分がひとりぼっちになるということは、マシュも、立香も、ひとりになるということ。置いていくということ。
 爆破で火の海となった管制室で倒れる立香とマシュを思い出すと、手が震える。
「オレは、マシュを、立香を、ひとりにしたくない。置いて行きたくない。一緒に、生きたい」
 藤丸を歩み続ける理由は、彼女たちにある。
 けれど、指輪はダメだ。それを彼から、贈られることは、もっとダメだ。
 もしも、指輪が彼女たちの手でつけられていたら、これほどまでに拒絶反応は出ない。
「だけど、アヴェンジャー」
 藤丸の目尻は乾いたまま。しかし、巌窟王の瞳は潤み、まるで宝石のように煌めいていた。
「キミを置いていくオレに、形あるものを、その手で託すのだけは止めてくれ」
 この指輪は、純粋な意味で、巌窟王からの贈り物ではない。だが、その薄い唇から発せられた「肌身離さず」という言葉と共に、左手の薬指に託された。つまり、藤丸にとって「巌窟王に贈られた特別な物」なのだ。
「言葉だけならいいんだ。傍にいて、一緒に戦って、一緒に、勝利を掴むのは、いいんだ。だって、オレたちはそういうものだから」
「マスター」
「そうだよ。オレはマスターで、キミはサーヴァント。だから、もう一度会いたいと思わせないでくれ」
 ぼろぼろと大粒の涙が、男の頬をつたい、整った顎の先から落ちていく。その滴を掌で受け止め、ゆるく握りしめた藤丸のサーヴァントは、唇だけで微笑んだ。
「お前の涙は、甘いな」
 青臭い精神を甘やかすように囁かれ、頬が熱くなる。
 現実を思い出せ、さっさと、思考回路を切り替えろと己の頬を強く叩きつける。
「アヴェンジャーっ」
「その通り! オレは、お前たちのアヴェンジャー。そして、共犯者だ。さぁ、何を望む? この空間で、無為に時間を過ごし、すべてを忘却してみるか?」
「喧嘩なら買うぞ! オレが、それを選ぶなんて考えてもないくせに!」
「フフッ、許せ。何、オレとて久しぶりの再会に、少々気持ちが昂ぶっている」
「……巌窟王、キミは」
「無為に時間を過ごす選択を切り捨てるのならば、オレに覚悟を示せ。マスター」
 どうも、目前の巌窟王には何か秘密がある。そして、尋ねようとすればはぐらかされる。
 幼い自分を見せてしまったせいで、強く出られない。
 途中でふさがれた言葉を飲み下し、藤丸は視線を巌窟王の後ろを射抜く。
「ここから、脱出する」
 藤丸が宣言した瞬間、空間に変化が起きた。
 薄暗い煉瓦の壁から、ずるり、ずるりと這うようにして、巨大な亡霊が姿を現す。
「巌窟王、力を貸してくれ!」
「了解した、マスター!」
 漆黒の外套を翻し、高らかに復讐鬼が吠えた。


 三.

 ぐらり、と立香の足がよろめいた。
 背負っている少年の腕は、だらりと揺れる。
「やはり、俺が背負う」
「ダメ。エドモンの両手は空けておきたい。いつ、敵が襲ってくるのか分からないんだからさ」
 荒くなった呼吸を整えて、少女は、気を失っている藤丸を背負い直す。
 数時間前まで、塔の外で、マシュと藤丸、そして巌窟王とアンデルセンで、楽しく話をしていた。けれど、緊張感も警戒も薄れさせてはいなかった。
 だというのに、藤丸の魂は奪われ、マシュとアンデルセンとは分断され、カルデアからの通信は不可能。
 絶体絶命の状況に、立香は、ふつふつと「楽しさ」が腹の底から湧き上がってくるのを感じていた。
「笑っているぞ、立香」
「マジで? 怒る?」
「むしろ、褒め称えたい」
「萎えた」
「それは、何よりだ」
 軽妙な応酬は、いつも通りに絶好調。
 これで、ツッコミ役の藤丸とうろたえるマシュ、愉快げに合いの手を入れるアンデルセンがいれば完璧なのだ。どちらも欠けているからこそ、物足りない。
「ねぇ、エドモン。ラスボスって例の魔術王が関係してるのかな?」
「……可能性はあるだろう。なにせ、お前たちは人理修復を成し遂げようとしている世界最後のマスターだ」
「だけど、あいつ言ってたんだよねぇ。7つの特異点を修復すれば、認めようって。それまで、手を出してくるとは考えづらい」
「ほぉ。では、何か心当たりでもあるのか?」
「……藤丸の魂は、肉体に半分ある。もう半分は、この塔のどこかにいる」
「断言したな。根拠は?」
「さっきから、寝言がうるさい」
「……俺には、聞こえない」
「聞こえない振りを、いつまでも続けられないと思うんだけどね」
「手厳しいな」
「だってさー、聞こえるのに、聞こえないって言い続けても、いつかは疲れちゃうよ」
「耳が痛いな」
「……エドモンのことじゃなくてね」
「ああ、大丈夫だ。ちゃんと、わかっている」
 巌窟王の瞳が、少女から少年へと移る。その眼差しは、ただ、ただ、優しい。
「私、キミのことをエドモンって呼ばないほうが良いかも」
「なぜ?」
「巌窟王」エドモン・ダンテスは、復讐者であって欲しいと願われて、それを受け止めて「アヴェンジャー」として顕現しているのに、生前の名前を呼ぶということは――。
「今のキミを否定しているなぁ~、って」
「否定したいんじゃなかったのか?」
「なるほど。キミは、私を意地悪な人間と見ていたのか。実に残念だが、違うとは言い切れないね!」
「そうやって茶化すが「生前の俺」を呼ぶ時のお前は、いつだって真摯な表情をしている。今も、俺を「相棒」として呼んでいる」
「……な、なに、いきなり」
「お前が、名前を呼ぶ存在は特定している。藤丸、マシュ・キリエライト。……あのロマニ・アーキマンや、ダ・ヴィンチ、先生と愛称で呼ぶほど親しくしている作家のサーヴァントですら、名前を呼ばない」
 立香は、沈黙を保ち、巌窟王の言葉を肯定する。
「癖、みたいなものだよ」
 立香の場合、他人の名前を呼ばないのは、言葉通り「癖」だった。
 彼女が中学生になってから、親が転勤族となり、遠方の引っ越しを何度も経験した。
 そのため、同年代の友達が出来ても、短期間で別れを繰り返す。そんなことが何度もあったので、だんだんと名前を覚えることをしなくなっていた。学校も面倒になり、通信制に切り替えたことで、立香の「癖」に拍車をかけた。
 しかし、カルデアに来てから、三ヶ月以上は経ち、顔を合わせる存在が、サーヴァント、カルデアスタッフとたくさん出来た。
「ドクターのことも、天才のことも、先生のことも、名前で呼びたいとは、思ってるんだよ。……めちゃくちゃ、恥ずかしいから、まだ出来てないけど」
「……恥ずかしいだけでは、ないだろう」
 隣の男は、どうして藤丸や立香のことを、まるっとお見通しと言わんばかりに、内に秘めている心を正しく捉えてくるのだろうか。
 頬に熱が昇ってくるのを、どうにかして抑えたいが、対策が講じられない。両手は藤丸を背負うためにふさがっている。歩きつづける足を止めるわけにもいかない。
 ぼふんっ。
「わぶっ」
 顔に、温かく柔らかくいい匂いがする布地がぶつかった。
 巌窟王の外套だ。
「ど、どうしたの」
「敵だ」
 漆黒の外套をはためかせ、背負っている藤丸ごと立香を覆い隠す。
 立香は巌窟王の後ろから、敵がいると言う方向へ目を凝らす。
 薄闇の中で、それは、はっきりと見えた。
 巨大な骸骨。亡霊だ。その手に持っている鳥籠が視界に入った瞬間、心臓が騒いだ。
「藤丸っ!」
「あの鳥籠に、いるのか?」
「行くよ、エドモン!」
「……いいだろう。お前の信頼に、応えよう!」
 巌窟王は、ふたりを抱え上げ、壁を走り、上へと飛んだ。
 立香の目では、この場がどうなっているのか把握できていなかったが、ここには天井があり、シャンデリアがあった。その椀木のひとつを掴み、振り子の要領で遠心力を作り、亡霊の頭上へ。
 立香は魔術回路にオドを流し込み、すみずみまで行き渡らせる。
「ガンド!」
 人差し指から発せられた呪いは、亡霊の後頭部に命中した。
 骸骨の亡霊は、まるで映像を一時停止させるように、その動きが停まった。
「よしっ!」
 拳を握り、勝機を掴んだ喜びを噛み締めると、立香は巌窟王の腕の中からしなやかに身を滑らせ、亡霊の手からぶら下がっている鳥籠に近寄る。
 空っぽの鳥籠だと認識するが、それは空間が捻じ曲げられているからだ。
 ダ・ヴィンチちゃんから貰った指輪を介して、彼がここにいると強く実感する。
 立香は考える。「藤丸立香」を取り戻すための手段を。
 柵へ手を伸ばし、触れようとしても指は空を切るだけ。むしろ、逆に飲み込まれる危険性がある。
 では、鳥籠だけを奪うのは? これも、物理的に不可能。鳥籠自体が、大きすぎる。天井にあるシャンデリアよりも大きい。
 唇に歯を立て、亡霊を睨みあげる。
「離れるぞ」
 巌窟王の手に引き寄せられ、再び燃え上がる黒衣の外套の内側へ連れ戻される。
 立香の力で亡霊の動きを止められるのは、数秒。
「悔しい! 悔しい、エドモン!」
「では、アプローチを変えるか。卵から孵る雛は如何にして殻を破る?」
「内側から罅を入れる……だけど、それじゃあ待つしかないじゃん」
「そうだ――待て、しかして希望せよ。あいつが戻ってくるまで、俺たちは、アレを倒す」
 ゆらりと白い亡霊が、頭をもたげる。薄暗い眼窩は、青く、紅く、不穏な光を見せつけている。
 意志を感じさせない。ただ、そこに在るだけで、万物を腐らせ、朽ちらせ、輝きを奪う禍。
「あんなのがいるこの塔って、いったいなんだろう」
「墓場」
 巌窟王が、簡潔に発した答えに、立香は、ひくりと頬が引きつった。だって、ここが「墓場」なわけがない。終わりを迎えた人々を悼む場所ではない。
 腐って、朽ちて、捨てられたようなこの場所を「墓場」とするのは、死者への冒涜に他ならない。
けれど、人は、忘却する生き物だから、こうなったのかもしれない。
 立香は唇を噛み、地面の割れ目に生える花を見下ろす。葉は腐りかけ、元は白かっただろう花弁はこげ茶色に変色している。
 水と肥料のある土、太陽の光があれば、すくすくと育っただろう。それが出来なかったのは、捨てられた場所だから。気にかけてくれる存在がいなかったから。
 ここは、そういう場所だ。
「生体反応があると、ドクター・ロマニは言っていたが、歩けども、歩けども、生きた人間と遭遇しなかった」
「……幽霊だけだった」
「恐らく、歪みが亡霊たちを寄り集め、亡霊たちは安寧を求め、生きた人間を塔におびき寄せ、取り込んでいった……というところだろう」
「じゃあ、ドクターが発見した人は、もう……」
「助けたかったか?」
「……この墓場は、安らぐ場所じゃない。苦しくて、苦しくて、しょうがないだけ。それなら、終わらせる」
 俯けていた顔を上げ、ゆらゆらと揺れる亡霊に再度、視界に映す。
「ああ、それでいい」隣に立つ巌窟王が小さく笑った。頼もしい相棒が、お前は間違っていないと言わんばかりに、胸を張って笑うものだから、世界に敵なしと思えてしまう。
「構えろ、立香!」
「はいっ!」
 ニ対の双眸が、獰猛に、苛烈に、黄金色に瞬いた。
 その輝きを奪おうと、巨大な亡者は咆哮し、左手に持っている鎌を、大きく振りかぶった。
「令呪を以て命ずる! アヴェンジャー、宝具解放!」
 巌窟王を纏う黒炎が青白い燐光を放ち、蜃気楼のように揺らめき、風がないこの場所で外套がはためく。
 それと同時に、鎌が振り下ろされる。
 ひっ、と喉の奥が鳴った。鎌の影が顔にかかり、その一瞬後の映像が、脳裏にこびりつく。しかし、その結末は訪れない。
 なぜなら、巌窟王の外套が硬質化し、死神の鎌をかわしたからだ。ガキンと耳触りな金属音と火花を散らした。
 彼が宝具を展開する時、いつも「監獄塔」が目に浮かぶ。今も、巌窟王が佇むその空間だけが、絶望の底へと変貌する。
 導いてくれた「アヴェンジャー」は、目前の亡霊について、何を思っているのだろう。復讐の化身として信仰された彼が、現実から切り捨てられた存在を。
「敵を前にして考え事か? 随分、余裕だな」
 なみなみと注がれた盃のように、魔力を満たした巌窟王が牙を剥いて笑う。そこに憐憫のひとかけらもなかった。
「……なんでもない」
 今は、余計なことを考えるべきじゃない。首を横に小さく振り、己の腰に回された腕をしっかりと掴む。
「鳥籠を狙う」
「承った。背中は任せたぞ、マスター」
 返事をする前に、巌窟王は立香から体を離し、地面を蹴った。
 その背中を見送り、利き腕を静かに肩まで上げて、構える。
 指先の照準は、亡霊が持つ鳥籠。
 嵌めている指輪が、ちりっと熱を持った。
「藤丸っ!」
 頭の中で、引き金に指をかけて、魔力を放つ。
 放たれた呪いの弾丸は直線を描いて、緻密に、鳥籠を撃ち抜いた。
 悲鳴が、耳をつんざく。
 亡霊が、黒炎に暴虐され、痛みにあえぐように手を頭上へと突き出している。
 ごめんね、と喉に出かけ、すんでのところで、深呼吸と共にかび臭い空気に溶かした。
 巌窟王は振り返らず、終わりを迎えた亡霊を見上げている。愛も情もない、善性を取り戻したエドモン・ダンテスではないと言った彼は、かつての恋人、神父も、亡国の姫君を忘れていない。
 自分のことも覚えていたのであれば、きっとあっけなく粒子となって消滅していく亡霊がいたことも、この墓場のことも、忘れないのだろう。
「キミは、忘れたいと思ったことが、あるのかな」
 そっと人知れず呟いた立香は、地面に転がる鳥籠のそばまで歩み寄る。
 扉の柵は粉々に砕かれている。中は空っぽなのは、相変わらずだった。
「立香」
 いつの間にか、すぐ後ろに巌窟王が立っていた。
「待つしか、ないんだよね」
「……不安か?」
 不安に思う必要がどこにある、と言いたげな巌窟王に、立香は肩を竦めた。
 不安を覚えるのは、当然だ。帰ってきて欲しいと願い、待っているよりも迎えに行きたいのは、ちゃんと彼がいるのだと、五感を使って味わいたいから。
 ふと、立香の意識が暗闇に飲み込まれそうになる。
 視界のノイズが走り、薄闇の世界ではなく、それと反対な真っ白な世界が、垣間見える。そこに藤丸も、もうひとり、巌窟王もいた。
「え?」
 そこまでが、限界だった。
 ひどい酩酊感と共に、ぷっつりと意識が途切れた。


 真っ白な世界が揺れた。
 さっきまで薄暗く、ここがどんな場所なのか、明確に把握出来なかったが、分厚い雲の合間に日差しが差し込むように、急に視界がクリアになったのだ。
 それと同時に、ふたりを囲み襲い掛かってきた亡霊が、ぴたりと動きを止めた。
 数分、観察してみたが、ぴくりとも反応しない。
「いったい、どうなってるんだ?」
 ざわりと、まだ胸が騒いでいる。警戒を怠ってはならない、とエマージェンシーがけたたましい。
 一体何に気をつけろと言っているのか。目を凝らし、違和感を探す。
 理由はわからないが、明度があがったことは喜ばしい。秘匿されていた暗闇の中に、何があるのか晒されている。
 壁にこびりついた血、踏みにじられた花弁、四方に囲む亡霊たちの後ろにあるのは、祭壇だった。
 祭壇の上に、黒い影が蠢いている。
 長さがバラバラな触手が、何かを引っ張っていた。
「巌窟王。あそこに……」
 左手の薬指が、熱い。
 ずるり、と真っ暗闇から引っ張り出されたのは、白い手だった。ワイシャツの袖口、肩、さらりと祭壇の上に広がる赤毛の髪。穏やかに目を閉じているが、蒼白く、まるで死人のよう。
「――立香っ!」
 湧き上がる衝動のまま、左手の指先を黒い影に向け、吠えた。
 藤丸が放ったガンドは、黒い影をちりじりに霧散させてゆく。
 しかし、黒い影は、再度形を取り戻そうとする。だが、絶え間なく、痛みの嵐が続く。けれど、柔らかな魂が欲しいと、触手を伸ばす。伸ばせば潰される。攻撃を続ける敵を排除しなければ、どうにもならない。
 黒い影は、触手を伸ばす方向を藤丸へと転換した。
 空を切り裂く音を響かせ、獲物の四肢めがけて、突進する。
 頬にかすり、皮膚一枚を斬りつける。肉の温度、憤怒の熱、魂の柔らかさ。焦がれているものがあった。しかし、獲物に届かない。あと一歩のところで、届かない。少女の傍にもいた「悪」が、目を細め、笑った。
「オレたちの勝ちだ」
 終わりだ。
 全てを消し尽くさんと、漆黒の炎が燃え盛る。
 藤丸の皮膚を焦がしながら、影は消えていく。
「マスター」
 いつの間にか傍にやってきた巌窟王の腕の中には、穏やかに寝息を立てている立香。
 ホッと胸をなでおろし、藤丸は、立香の額にかかる髪を耳にかけてやる。
「オレと同じように、魂だけ連れてこられちゃったのかな」
「いや、完璧に取り込まれたわけではない。時間が経てば、肉体に還っていく」
「そっか、良かった」
「お前も、直に還る」
「……キミを、ここに残して?」
 真っ直ぐに見つめ合い、碧と金がぶつかりあう。
「マスター」
 呼ぶ巌窟王の声音は、戦闘の名残が色濃い。舌の上がざらつき、喉の乾きを覚えているようだった。
「もう、わかっていると思うが、これは夢だ」
「……だから?」
「目を覚ませば、忘れている、うたかたの夢だ」
「……じゃあ、何したって、いいよな」
 ぱちり、と巌窟王が瞬きをする。そうしていると、人離れた十字が刻まれた月色の瞳は、いとけないはちみつ色にも見える。
「屈んで」
 その一言で、藤丸が何をしようとしているのか察した黒衣のサーヴァントは、帽子を外し、丁寧にお辞儀をするように、少年と視線をあわせた。
「これで、いいか?」
「もう少し、離れててもいいんだけど」
 鼻先が触れ合い、目の焦点がぶれるほどの距離に、藤丸は居心地悪そうに呻いた。
巌窟王は、楽しそうに、目を細める。
「誓いを交わすには、これくらいがちょうどいい」
「経験者だから?」
 照れが加速し、饒舌に回る唇を巌窟王の指が塞いだ。
そっと、感触を確かめるように、やさしく添えられた指先が離れ、月よりも冴え冴えとしている黄色い目に、間の抜けた自分の顔が映っていた。
 藤丸は瞼を伏せ、小さく呟く。
「すき」
 返事の代わりなのか、上唇をぺろっと舐められた。
 びくりと肩が跳ねて、目を見開く。
「……目、閉じろよ」
「お前を見ていたかった」
「ばか」
心臓が痛い。
 彼の一挙一足で、何度も、殺されている気がする。
 でも、一矢は報いた。
「じゃあ、またな」
「……また会う気か? 物好きなマスターだ、本当に」
「よくわからないこと言うなよ。ここにいる巌窟王も、外にいる巌窟王も、オレにとって、すきな人だよ」
 どうせ、夢だからと、少年は素直な気持ちを言葉にしたためた。
「……ああ、また会おう」
 巌窟王は藤丸の肩を抱き寄せ、耳元に、吐息と共に囁いた。
 視界にノイズが走る。
 目覚めの時間だ。
 忘れてしまう。だから、もう少しと口を開こうとすれば、巌窟王が潤んだ目を細め、首を傾げた。
 頬に、まろやかな感触が伝わる。
「俺が、待っている」
 すとん、と瞼が落ちた。


 四.


「――き、ろ! 起きろ、目を開けろ、マスター! 立香! 藤丸!」
 ばちっと目が開いた。
 視界に、帽子を脱いだ巌窟王。目を見開く珍しい表情に、藤丸も目を丸くする。と、視界の端に橙寄りの赤が映った。
「立香!」
 腹に力を込めて、藤丸は飛び起きる。半身の安否を個の目で確認しなければ、死ぬに死にきれない。
「ちょっと、死にそうな顔しないでよ」
 困ったように笑う少女が、巌窟王の腕の中に、しっかりと収まっていた。
「っ、あ、あぁ……よかったぁ~~~」
 情けない顔をさらけ出しているが、外面を気にしている場合ではない。
 唇を尖らせる立香も、難しい表情で睨んでくる巌窟王も、まるごと抱きしめる。
 ぎゅうぎゅうと力を込めれば、背中に腕が回った。
「それはこっちのセリフだから。急にぶっ倒れて、意識不明だし、気がついたら、私達塔の中だし」
「うんうん、うんうん」
「藤丸、おんぶするの大変だったんだよ」
「うんうん、うんうん」
「……ダメだこりゃ」
 呆れて笑うその反応すら、安堵の理由になる。
 すきな人が生きている。触れられる。また会えた。それだけで、充分だ。
「……そういえば、ここ、外?」
「うん、塔の外だよ」
 スン、と鼻孔をくすぐるのは、ロンドン特有の湿った空気だった。
「元凶が消滅すれば、その力で構成された塔も同じ結末を迎える」
「……終わったのか」
「ああ、終わった」
 ぽつりと呟いた独り言を拾いあげたのは、言葉少なく静かにふたりを見守っている巌窟王だった。
 そこで、藤丸は気づいた。自分の背中に回っている腕は、立香ではなく、彼の両腕だ。
 指を広げ、掻き抱くような力強さが背中越しに伝わる。そして、左手の薬指だけが異様に熱く、その理由に辿り着き、さらに体温があがった。
「ま、マシュたちとも合流しないと、な……」
 この体勢から抜け出そうと、体を後ろに引こうとするが、微動だにしない。むしろ、もっと密着させようと、腰にも腕が回る。これは、立香の腕だ。
「なーにやってんの?」
「いいじゃん。こうしてくっついて、マシュたちのお迎え待とうよ」
 あっけらかんと無邪気に言われてしまえば、ぐうの音も出ない。
 正直に言えば、睡魔もやってきて、目を閉じたくてしょうがなかった。
 別に巌窟王とふたりきりというわけではなく、立香もいる。彼女も眠そうにうつらうつらとしている。
「……」
「……」
 巌窟王の表情を窺うが、無機質な面差しに見つめ返されるだけだった。
 腕もそのまま固定されている。
 それなら、このまま、瞼を下ろして、微睡みに身を委ねてしまっても、いいだろうか。たまには、立香を真似て、甘えてもいいだろう。
 藤丸は筋道を立てて、自分を納得させると、深く息を吐いてから、おそるおそる目を閉じた。
「……藤丸、寝た?」
「ああ」
「私も、眠い」
「目を閉じろ。お前たちの眠りは、俺が守ろう」
「……なんか、機嫌いいね」
「すべてを委ねられているからな」
 立香は、聞き心地のいいその声音に耳を傾けながら、目を閉じる。気を抜けば、一瞬で眠りの淵へと落ちてしまいそうだったが、なんとか唇を動かす。
「私たち、キミを、愛してるからね」
 ふふっと口角を上げ、腕に力を入れる。背中を伸ばし、巌窟王のうなじに指を添える。
 すると、彼は、ほんの少し角度を深くしてくれた。
 触れるだけの口付け。
 それが、限界だった。おやすみなさいと小さく囁いて、立香は穏やかな眠りについた。
「……フッ」
 男は、少女の告白に、ほんの少し口元を綻ばせると、手元に転がっていた帽子を被り直し、葉巻を口につけるが、結局火はつけなかった。
 煙で、腕の中に眠る彼らを、起こすのは忍びなかった。
 安らかな寝顔からは、悪夢の気配はい。けれど、疲労の色が濃い。
 巌窟王は葉巻をくわえたまま、小さな、小さな歌声を、腕の中でこんこんと眠り続ける彼らに聞かせる。
 唯一無二のマスターである少年少女。
 ふたりのためだけに捧げられたのは、古い記憶の底にあった題名もおぼろげな子守唄。




END.